「我々が目指すのは、変異ウイルスが追えない、新しい究極のウイルス治療薬だっ! 分かるな、海老尾君っ!?」
「ええええ、分かりますとも…」
蛸山教信者の海老尾にとって、所長の海老尾の言動は、もはや崇高(すうこう)なお告げ、そのものだった。
次の日の朝、海老尾は賃貸マンションの一室で目覚めた。すでに目覚ましは9:20を指している。どういう訳か研究所を出た途端、蛸山教が海老尾の心境から消え去るのは、海老尾自身、不思議と言えば不思議だった。むろん、海老尾は蛸山の医学的見解を間違いないと信じてはいるのだが、蛸山の言うこと成すこと全(すべ)てを信じるのが信者だから、研究所を出れば、蛸山の行動、言動全てを信じられなくなるのである。蛸山がガドレル下の屋台で、おでんを突っつきながら、日本酒の冷えたコップを傾ける姿などは、到底、信じられなかった。それに、に会いもしないハンチングを被りながら去る姿も信じられなくなる原因の一つだった。海老尾にとって所長の蛸山を信じられるのはただ一つ、研究所内での白衣姿、ただ一つだった。
「チェッ! 九時過ぎか…。まあ、仕方がない。蛸山先生の前では気を遣うからなぁ~。気疲れが溜まってんだ、きっと…」
ブツクサ呟(つぶや)きながらベッドを抜け出した海老尾は、いつもの休日の行動を開始した。
海老尾が朝食のスクランブル・エッグを口に運んだとき、携帯が鳴った。
「はい、海老尾です…」
こんなときに…と気分を悪くしながら海老尾は携帯を手にした。
『私だよ、海老尾君。分かるかね?』
「どちらさんですか?」
番号は登録してあるから、手にした瞬間、誰からの電話かは海老尾には分かっていた。しかし、である。休日の海老尾としては、所長の電話は忘れたかった。
『どちらさんって、君。蛸山だよ…
蛸山としては、声で分かりそうなもんだ…くらいの気分だ。
「ああ! 先生でしたか…。で、なにか…」
『いや、近くまで来たもんでさ、モーニングでも、どうかと思って…』
海老尾は、俺、食ってんじゃん! である。
「すみません。ちょっと急ぎの要件がありますので…」
『そう! じゃあ…』
蛸山は追わず、すぐ携帯を切った。海老尾としては、やれやれである。海老尾の急ぎの要件とは、トースターから焼けた食パンを出すことだった。
続
「それとさ。先ほどの話なんだけど…」
蛸山は急に話を戻(もど)した。
「先ほどの話と言いますと…?」
海老尾は、つい今し方、訊(たず)ねた内容を忘れていた。
「嫌だなあ…。治療薬の話だよっ!」
さすがにイラッ! としたのか、蛸山はトーンを上げた。
「ああ、モラスピラニアですかっ?」
「我々が治験中のモレヌグッピーもだがね。どうも、私が見たところ、抗生物質的で一過性のような気がしてならんのだよ…」
「と、言いますと…」
「今後も新しく発生するであろうウイルスが、耐性を持つ可能性が高い…」
蛸山は、少しトーンを下げた。
「と、なると、研究は今後、人類がウイルスに勝つことなく続いていくってことですかっ!?」
「まあ、そういうことになるだろう…」
「発生する新型ウイルスとの戦争ですね…」
「だな…。国連の事務総長さんも、そんなこと言ってたな。文明進歩を一端、ストップしないと、ミクロの微生物は益々、強くなるような気がしてならんのだよ」
「どうしてですかっ?」
「考えてもみなさい。人類は文明進歩で新しい化学物質を、どんどん撒(ま)き散らしてるんだよ。微生物だって生き残るためには、そうした化学物質に打ち勝つよう強く進化するだろっ!?」
「そうなりますね…」
海老尾は蛸山の話を聞く人となった。
「だろっ?」
「はいっ!」
蛸山に念を押され、海老尾はついに蛸山教の信者になっていた。
続
「僕はブルマンしか飲まない派なんですがねぇ~」
「君は研究成果の割には高級志向なんだな…。この前の論文見たけどさ、ありゃ~酷(ひど)かったよ。後期院生ランクだよ。ブツクサ言うつもりはないけどさぁ~、もう少し頑張って欲しいもんだ…」
「分かりましたっ! 先ほどの話なんですけど、製薬会社メラコのモラスピラニアなんですけど…」
海老尾は分が悪い…と思ったのか、話題を転換した。
「モラスピラニアがどうかしたのかね?」
「アレは効果があるようですが、ズゥ~っと継続して効果があるんでしょうか?」
「いや、それは分からん。我々が現在、治験中のモレヌグッピーだってそうだが、今後発生するであろう新ウイルスに有効かどうかは神のみぞ知るだなっ!」
「そんな…。だったら研究を進める意味がないじゃないですかっ!」
海老尾は蛸山用のマグカップにお湯を注ぎ入れながら、少し興奮気味に言った。自分用のコーヒーは焙煎中だった。
「馬鹿か君はっ! それを言っちゃぁ~お終(しま)いだよっ!」
蛸山は昨日、テレビで観た某有名映画の名セリフを真似ながら諭(さと)すように言った。
「すみません、僕としたことが…」
「ははは…君だから言えるんだろうけどね」
蛸山は海老尾の出来の悪さを暗に言うかのように暈(ぼか)した。
「はあ、どうも…」
海老尾は意を解さず、蛸山の突っ込みをスルーした。
二人はコーヒーを飲み終えると、また電子顕微鏡の信者になった。
「君の白衣、随分、黄色く褪(あ)せたねっ! 洗剤が悪いんじゃないかっ!? 買い替えた方がいいよ…」
「ああ、はいっ!」
蛸山の突然の奇襲攻撃に、海老尾は返すのが関の山だった。
続
「さいでしたか…。研究所だと息が詰まるから、和(なご)むモンがいるんでしょうなっ!」
「えっ!? ああ、まあ…」
海老尾も蛸山と同じ言葉を繰り返し、暈(ぼか)した。
定食を食べ終えると二人はお愛想を済ませ、隣の喫茶ペアンへ入った。これもお決まりのコースで、研究所→大衆食堂・鴨屋→喫茶ぺアン→研究所なのである。
喫茶ペアンで気分の傷を止血し、二人は研究所へとUターンした。午前とは違い、午後のこれからが研究所の正念場となる。二人はふたたび、電子顕微鏡のモニターを見ながら、研究を継続させた。改変された研究所の方針は、ウイルスにはウイルスで・・というミクロ[微視的]理論が採用されていた。従来のマクロ[巨視的]理論による抗ウイルス対応[抗生物質]は、すでに限界を迎えていたからである。この方針は、ウイルスだけにとどまらず、キャンサー[悪性細胞]などにも言えた。
「先生っ!」
「なんだい急にっ! 驚くじゃないかっ!」
「そういや最近、急に頭髪が侘(わび)しくなられましたね…」
「何を言うかと思ったら…。だが、それは事実だな、海老尾君っ!」
蛸山は、そう言いながら少し肩が凝(こ)ったのか、肩や首を揺らしながら大きく腕を一回転させた。
「もう、そろそろ五十路(いそじ)も半(なか)ばですからね…」
「そうそう! だが私などは、まだ有難い方だよ。大学同期の中海(なかみ)なんか、丸禿(まるはげ)だからなっ!」
「N大の中海教授ですか…」
「そうだ…。系統遺伝というやつだなっ! 先祖のいい血統に感謝せずばなるまい…」
「先生の場合は裾野(すその)は大丈夫で、頂上だけですからねっ!」
「海老尾君、そういう言い方はないんじゃないかっ」
蛸山は柔らかく笑った。
「すみません。おっ! こんな時間か…。先生、コーヒー淹れますねっ! いつものインスタントでいいですかっ!?」
「ああ、砂糖は多めに頼むっ!」
「はい、分かりました…」
海老尾は洗面台前の棚に置かれたコーヒー瓶を手にした。それを見ながら、蛸山は先祖が糖尿の血統でなかったことに、改めて感謝した。
続
夏ちゃんが、この二人には付き合ってられない…とばかりに早々と厨房へ姿を隠すと、海老尾が小声でボソッと蛸山に訊(き)くでなく訊(たず)ねた。
「アメリカの製薬会社メラコがモラスピラニアを出すそうですねっ!」
「ああ、らしいな…。予防ワクチンから、やっと治療薬だ。我々もこうしちゃおれんぞっ! そうでなくとも、国産ワクチンが作れんのかっ! と小五月蝿いメディアの連中が突(つっつ)くからなっ!」
「ですよねっ! しかし、今回、治験中のモレヌグッピーは先生、なんかやれそうな…そんな気しませんかっ!」
「ああ…。だが、口外は絶対ダメだぜ、海老尾君っ! 君は口が軽いからなぁ~」
「馬鹿、言っちゃいけませんよっ! 僕だって言っていいことと悪いことの見境(みさかい)はつきますから…」
「大丈夫かいっ? 君の大丈夫は、どうも信用できんからな」
「信用してくださいよっ!」
海老尾が声を大きくしたとき、夏ちゃんが肉野菜定食とニラレバ定食をトレーに乗せて厨房から現れた。
「お待たせしました…」
夏ちゃんは珍しく田舎訛(いなかなま)りがない愛想いい声で定食を置いた。二人は空腹だったのか、豚や牛が餌を貪(むさぼ)り食うように食らい始めた。
「ここのは、ほんとに美味(うま)いなっ!」
「ですよねっ! この香ばしい味はハートに沁みる一品ですっ!」
「鴨屋以外の店には入る気がしないんだから大した腕ですよねっ!」
『ありがとさんでっ!!』
その声が厨房に届いたのか、厨房の奥から店主の大きな声が返ってきた。
「奥まで聞こえてるんですねっ! 大きな声は出せないな…」
「ああ…出せない、出せないっ! さっきの話、大丈夫かなっ?」
『ああ、熱帯魚のお話でしたなっ! 研究所で飼ってられるんですかっ!?』
「えっ!? ああ、まあ…」
蛸山は危うく暈(ぼか)した。
続
毎日のことだから研究所の昼食は至ってシンプルだった。海老尾などは、給料がもう少し…などと、研究成果を上げられない理由は給料が安いからだとでも言わんばかりである。さすがに蛸山は所長だけのことはあり、思っていても口外しないが、深層心理では海老尾より根深さがあるようで、私ぐらいの実績なら倍の給料が相当…などと思う節(ふし)もあり、根暗男の感は否めない。概して二人とも、日々の研究が等閑(なおざり)になり、アグレッシブさがここしばらく途絶えていた。それでいて給料の安さを思うのだから、これはもう、救う余地がない。^^
そんな二人の馴染みの店は、研究所から歩いて数分のところにある大衆食堂、鴨屋だった。
「いらっしゃいっ! 先生、いつものでよろしゅうございますねっ!?」
「ああ、いつもの肉野菜定食…。ああ、それに、今日はどういう訳か喉(のど)が渇く。あとでレモン・スカッシュをもらおうか…」
『へいっ! 助手さんはっ!?』
「その助手さんってぇ~の、やめてもらえません?」
『失礼しました~。じゃあ、なんてっ!?』
「そちらの先生はっ? くらいでいいんじゃないですか。僕も格下の新任ながら、一応、先生なんですから…」
『へいっ! じゃあ、そちらの先生はっ!?』
「ニラレバ定食で…。ああそれに、レモン・スカッシュ!」
『へいっ!』
鴨屋の店主が厨房に引っ込むと、入れ違いに女店員の夏ちゃんが水コップをトレーに乗せ現れた。夏ちゃんこと、江崎夏美は地方出身の十九才で、大学二部にも通う学生だった。
「12時10分・・先生、今日も12時10分だぁ~よっ!」
「ああ、偶然、偶然っ!」
「偶然ってことはなかろっ? 昨日(きのう)も一昨日(おととい)も12時10分だったぁ~よっ! ほんと、研究、頼みますよっ!」
「はい、はい。夏ちゃんには敵(かな)わなんなぁ~」
蛸山は、しっかり者の夏ちゃんに白旗を上げた。
続
「先生! いや、先生じゃなかった。所長、どうなんでしょ!?」
「なにがっ!?」
「このウイルスですよっ!」
「この検体はむろん、ウイルスだよ。それがどうしたんだいっ!?」
「だから、このウイルスの変異を阻止する抑制遺伝子のことですよっ!」
「それは遺伝子を植え付けてみにゃ分からんだろっ!」
「ベクター[遺伝子組み換え用の核酸分子]ですかっ?」
「ああ、予算さえ計上してもらえりゃ、やることに異存はないんだが…」
「お上(かみ)次第ですかっ!?」
「ああ、まあそういうことだ…。高くつく予算の自腹は嫌だからなっ! おっ! そろそろ昼だなっ!」
蛸山は腕を見ながら小さく言った。
「所長は食べることは忘れないですねっ!」
「そりゃ、そうだよ。体力維持あっての研究だからな」
「バテりゃ、元も子もない・・ですか?」
「そうそう! そろそろ頼んどいたデリバリーのピザが届くころだっ! 君、すまんが玄関で待機してくれんかっ!」
「所長のお年でピザですか。僕なんか狸そばですよ…」
「はっはっはっはっ…逆だなっ!」
蛸山は豪快に笑い飛ばした。
続
蛸山正雄は国立感染症研究所の組織を前身とし、新しく設立された国立微生物感染症化学研究所で日夜、ウイルスの研究に明け暮れるウイルス第一部の先端医療ウイルス科科長を兼ねた所長である。
「それにしても強くなったな…」
電子顕微鏡[SEM]のモニターを覗(のぞ)き込むと、そこにはウジャウジャとウイルスが映し出され、蛸山は思わず呟(つぶや)いていた。
「所長っ! 何が強くなったんですかっ!?」
「んっ!? ははは…うちのカミさんだよっ、海老尾君!」
海老尾は蛸山の招請(しょうせい)で大学の研究室から抜擢(ばってき)された元助手だった。
「カミさんでしたか。残念ながら、独り身の僕には分かりません…」
「ははは…君にも分からないものがあったんだな」
「そりゃ、僕にだってありますよっ! 例えば、見えないモノです。見えないモノは怖いですからねぇ~」
「幽霊とか、かいっ?」
「ははは…所長、馬鹿言わないで下さいっ! これでも僕は学者ですよっ! そんな霊的なモノは信じてませんよっ!」
「ふ~ん、そうなんだ。私は存在までは否定していないんだがね…」
「存在するとっ!?」
「存在するかどうかまで、私にゃ分からんが、現に三次元科学では説明不可能な事象も、数々、存在するからね…」
「はあ…」
「まあ、余り深く考えるなっ!」
「はあ…」
それ以上は訊(たず)ねず、海老尾は蛸山と同じように机上に置かれた電子顕微鏡のモニターを覗(のぞ)き込んだ。
続
蛸山正雄は国立感染症研究所の組織を前身とし、新しく設立された国立微生物感染症化学研究所で日夜、ウイルスの研究に明け暮れるウイルス第一部の先端医療ウイルス科科長を兼ねた所長である。
「それにしても強くなったな…」
電子顕微鏡[SEM]のモニターを覗(のぞ)き込むと、そこにはウジャウジャとウイルスが映し出され、蛸山は思わず呟(つぶや)いていた。
「所長っ! 何が強くなったんですかっ!?」
「んっ!? ははは…うちのカミさんだよっ、海老尾君!」
海老尾は蛸山の招請(しょうせい)で大学の研究室から抜擢(ばってき)された元助手だった。
「カミさんでしたか。残念ながら、独り身の僕には分かりません…」
「ははは…君にも分からないものがあったんだな」
「そりゃ、僕にだってありますよっ! 例えば、見えないモノです。見えないモノは怖いですからねぇ~」
「幽霊とか、かいっ?」
「ははは…所長、馬鹿言わないで下さいっ! これでも僕は学者ですよっ! そんな霊的なモノは信じてませんよっ!」
「ふ~ん、そうなんだ。私は存在までは否定していないんだがね…」
「存在するとっ!?」
「存在するかどうかまで、私にゃ分からんが、現に三次元科学では説明不可能な事象も、数々、存在するからね…」
「はあ…」
「まあ、余り深く考えるなっ!」
「はあ…」
それ以上は訊(たず)ねず、海老尾は蛸山と同じように机上に置かれた電子顕微鏡のモニターを覗(のぞ)き込んだ。
続