「それを守らないと、どうなるんだい?」
『ウイルス界のトップによって駆逐(くちく)されてしまいます』
「ウイルス界のトップ?」
『はい、私達の頂点に君臨するウイルスによってです』
「ウイルス界の王様・・ってことかい?」
『そうじゃないんですが、まあ、そんなところです。それよか、いい情報がありまして』
「と、いうと?」
『今、その極悪変異ウイルスを追跡してもらってるんです』
「誰に?」
『偶然、お会いした老ウイルスなんですが…』
「老ウイルス? そんなのに頼んで大丈夫なのかい?」
『ええ、なんでもベクター[細胞に遺伝物質を送達する手段]では顔が利く、かなりの顔なんだそうです』
「ウイルス界も僕達と変わらないんだな…」
『はい、そりゃもう! いや、海老尾さんの暮らす世界よりもっとシビア[過酷]かも知れませんが…』
「手段はどうでもいいからさ、出来れば、なんとか早くやっつけて欲しいんだっ! 人がバタバタ死んでんだからさっ!」
『分かりました。微力ながら、僕の出来る限りでなんとかやってみますっ!』
「ああ…」
『上手(うま)くいきゃ、次にお会いしたとき、海老尾さんの世界では状況が好転しているはずです』
「なんとか、宜しく頼むよっ!」
『はいっ!!』
そのとき海老尾は、室内の入口ドア前で目覚めた。春先とはいえ、四月の夜風は冷たかった。
続
蛸山と海老尾はノックダウン寸前の状態で応接セットの椅子にへたり込んでいた。話し合う声も、かろうじて聞こえる程度の小声である。
「海老尾君、とにかく、コレでいこう…」
「分かりました。政府に緊急連絡は入れておきましたから、治験なしに承認されると思います…」
「とにかく人命優先だ。完治しなかったとしても、罹患した途端、死ななきゃ、また完治する薬剤を考える時間もある…」
「ですねっ! とにかくの薬剤ということで…」
「ああ…徹夜続きで疲れたろう。今日はもう帰っていいぞっ!」
「有り難うございます。所長は?」
「私も疲れた。報告書を総務に渡したら返らせてもらうよ」
「そうして下さい。じゃあ…」
海老尾は五日ぶりに研究所から解放され、帰途についた。帰途の途中は公衆の動きもあり、気が張っていたからか眠気には襲われなかったが、誰もいないマンションの自室に入った途端、意識は遠のいた。と、すぐにレンちゃんが夢に現れた。
『一体どうしたんです、海老尾さんっ! 何日も待ってたんですよっ』
「いや、悪い悪いっ! 偉いことになって帰るどころじゃなかったんだよ、レンちゃん!」
『どういうことですっ!?』
「カクカクシカジカなんだよっ!」
『カクカクシカジカって、それは本当の話ですかっ!』
「君に嘘(うそ)を言ってどうするんだっ!」
『そりゃまあ、そうですが…。それにしても極悪変異ウイルスのヤツっ!!』
「怒ってるな、レンちゃん…」
『ええ、怒ってます。ウイルス界にも、していいことと悪いことがあるんですっ!』
「ほう! そういうのがあるんだ…」
『ええ、あるんですっ! 海老尾さん達が住む人の世界と同じ決まりごとが…』
続
罹患(りかん)しただけで死に至るのは恐怖である。この思いは地球上に生存する最も知的生命体である人間[ホモ・サピエンス]にのみ考え得る感情なのだ。
蛸山と海老尾はその夜から三日三晩、研究開発に没頭した。
「所長! ソチラはどうです!?」
「んっ!? ソチラは相変わらずコチラだよっ!」
蛸山の返しに、海老尾は、上手(うま)いこと言うなぁ…と思いながら蛸山の顔を窺(うかが)った。しばらく沈黙が続いたあと、急に蛸山が問い返した。
「君の方はどうなんだい?」
「はあ、コチラは相変わらず変化なくコチラです…」
聞いた蛸山も、なかなかの返しだ、面白い…とニヤついた。
開発の進展は二人の徹夜が功を奏し、死を食い止める最低限の製剤だけは、かろうじて完成しつつあった。
その頃、レンちゃんは蛸山の帰りを今か今かと待ち望んでいた。言っておくが、これは飽くまでも海老尾の夢に現れる世界なのだから、海老尾の潜在意識の中にレンちゃんは住んでいる訳だ。要は、研究室で仮眠する海老尾が夢を見られる状況下であれば現れることは可能なのである。ところが如何せん、海老尾はわずか数時間の仮眠で徹夜をしていたから、仮眠時間は爆睡して夢を見られる状況下ではなかった訳である。だから、会えない・・と、結論はこうなる。レンちゃんにしてみれば、海老尾が自宅のベッドで眠っている・・というのが想定内なのだ。まさか、研究所で三日三晩、徹夜しながら仮眠しているなどとは全く思ってもいなかった。
『妙だなぁ~。そろそろ現れてもいい頃なのに…。何かあったのかも知れない』
レンちゃんはクルクルと回転しながら海老尾が夢に現れるのを夢の中[海老尾の潜在意識の中]で待っていた。
その頃、最悪ウイルスによる世界の状況は、一層、その深刻さを増していた。ウイルスの影響による死者は多い国で一日、数千人に達していた。もはや、一刻の猶予も人類には許されなかったのである。
続
鶏(にわとり)や豚のように罹患(りかん)すれば死ぬ最悪ウイルスの出現は、世界を震撼(しんかん)させつつあった。将来こうなるであろうことは、すでに蛸山も海老尾の研究グループも予想はしていた。だが、時期が余りにも早くずれ込んだのは予想外だった。これは明らかに二人にとって予想外だった。二人の予想は十数年先というものだったが、起きている事態は深刻で、十数年先ではなかったのである。
「君、今夜はここに泊まり込むかい?」
「えっ!? ああ、僕はどちらでも…。帰ったところで誰もいませんから」
「しまった! まさかこんな事態になるとは予想していなかったから、シュラフを持ってこなかったよ。まあ、空調は入れたままにしてくれるようだから、眠くなったら応接セットで仮眠させてもらおう」
「はい…」
その後、二人はモレアを元に、新ウイルス剤の研究を寝る間も惜しんで続けた。そして瞬く間に夜が明け、白々と外が明るくなった。二人が仮眠をとったのは、わずか数時間である。
「所長、ソチラはどうですか?」
「余り捗々(はかばか)しくはないな…。君の方はどうだい?」
「こちらも、よくないですね。検体があれば、それを基(もと)にして・・という手段もあるんですが…」
「近づくだけで罹患するってのは、まるで放射能だなっ!」
「ですね…」
「防御服が効かんというのは困ったもんだ…」
「放射能より質(たち)が悪いですね」
「ああ。ドローンのような機械以外、近づく術(すべ)はない訳だ」
「でも、一端、探索に飛ばせば、コチラへは戻(もど)せませんね」
「ウイルスが飛沫感染なら、まだいいが、空気感染の場合はダメだな」
どちらからともなく、二人は深い溜め息を吐(つ)いた。
続
「なんだって!! それじゃ、動きが取れんじゃないかっ!!」
「はあ、それはまあ、そうですが、戒厳令ってのは元々、人々を動けなくするために出す命令ですから…」
「それはまあ、そうだが…。まるで、軍部が動いた戦前の日本だなっ!」
「ですね…。それで波崎さん、最初の感染ってのは、どういう状況下で?」
「鳥インフルエンザや豚コレラと同じですよっ! 罹患(りかん)した人がバタバタとその場で倒れ、死んでいったということです…」
海老尾が訊(たず)ねたとき、波崎はすでに顔面蒼白になっていた。
「人は賭殺(とさつ)処分にして地中に埋めるって訳にはいかんからなぁ~」
当たり前のことを、さも当たり前のように言いながら、蛸山は腕を組んで意気消沈した。そのとき、研究所のロビーに設置された大型テレビのモニター画面が緊急放送を映し始めた。アナウンサーの声も幾らか上擦(うわず)っている。
『せ、政府の出した戒厳令による影響は大きく、首都圏は混乱状態に陥(おちい)っていますっ!』
テレビ局のドローンに搭載されたカメラが首都上空を映し出した。
「まるで死の街だな。なんの動きもない…」
「戒厳令ですから…」
波崎は戒厳令を強調して蛸山の言葉を遮(さえぎ)った。蛸山としては、人の話の棒を折りおって! と怒れるが、その通りなのだから仕方なくスルーするしかない。
「ともかく、私らに出来ることは抗ウイルス剤を作るしかないっ!!」
「はいっ!!」
海老尾が蛸山に追随する。
「研究だっ、海老尾君っ!!」
「はいっ!!」
二人は走るように研究室へ向かった。
続
蛸山と海老尾が研究所へ近づくと、いつもと違い、所内は煌々と灯りが眩く輝いている。人の動きも活発で、多くの人々が右往左往する姿がエントランスの自動扉越しに見えた。
「所長! い、いつもと違いますねっ!」
「そりゃそうだろっ! バタバタと死者が出てるんだからなっ!」
二人が所内へ入ると、総務部長の波崎が興奮気味に慌(あわ)ただしく近づいてきた。
「しょ、所長っ!! 大変ですっ!!」
大変なのは分かってるっ!! と言おうとした蛸山だったが、ここは冷静に…と思い直し、心を静めた。
「ああ…。概(おおむ)ねは分かってる。それより、その後のクラスターはどうなんっ!」
「実はクラスターが発生した地域近くで幾つものクラスターが発生しているという通報があったばかりですっ!!」
「死者はっ!!」
「罹患者(りかんしゃ)全員が…」
「な、なんだって!!」
「救急も罹患する恐れがあり、近づけないようでして…」
「所長、感染力がっ!!」
「ああ、私が恐れていたことが起こったよ、海老尾君!!」
「変異ウイルスですねっ!!」
「それも今までになかった強力なウイルスだっ!!」
「ど、どうされますっ!!」
「どうされますって、どうしようもないじゃないかっ!! 出来ることは蔓延を阻止することと、一過性でもいいから死者の増加を食い止める緊急治療薬を作るしかないだろっ!!」
「今夜から研究所で徹夜ですねっ!!」
「ああ、無論だっ!!」
「たった今、政府が外出禁止の戒厳令を全国に出したそうですっ!!」
波崎の声が混乱で上(うわず)っていた。
続
久しぶりに花見をしていた蛸山と海老尾だったが、事態の急変に驚かされることになった。その前兆は海老尾の友人である赤鯛の携帯による一報によってだった。
「なんだってっ!! 集団感染の罹患者(りかんしゃ)がバタバタ死んでるだって!! 冗談じゃないだろうなっ!!」
『馬鹿野郎っ!! こんなこと冗談で言えるかっ!!』
「わ、分かったっ!!」
ほろ酔いの赤ら顔で浮かれていた海老尾だったが、携帯を切った手が俄かに震え出した。
「…どうしたんだ、海老尾君。いい桜だな…もう一杯どうだい」
「所長!! そんな呑気(のんき)なこと言ってる場合じゃありませんっ!!」
「んっ? ははは…君もかなり酔いが回ったと見えるなっ!」
「酔ってなんかいませんよ、所長!!」
「そんなに興奮して、いったいどうしたんだっ!?」
「どうもこうもっ!! バタバタと死者が出てるんですっ!!」
「クラスターかっ! だとしても、バタバタ死ぬってのはっ!?」
「どうも、罹患しただけで死ぬ新型の変異ウイルスのようですっ!!」
「モレア製剤は効かんのかっ!?」
「はあ、よくは分かりませんが、どうもそのようです…」
赤鯛の携帯は事実で、その頃、発生したクラスターは、全員を死に至らせていた。
「おい、海老尾君っ!! すぐ研究所へ戻るぞっ!!」
「所長、もう夜の八時半ですっ!! 守衛のガードマン以外は、誰もいませんっ」
「そんなこと言ってる場合かっ!!」
「ここの片づけは?」
「そんなの明日(あした)でも明後日(あさって)でもいいっ!!」
「はいっ!!」
蛸山の一喝(いっかつ)の元、海老尾は慌(あわ)ただしく桜の下敷きシートから立ち上がった。
続
蛸山はインスタント豆思考派である。片や海老尾はブルマン[ブルーマウンテン]以外は飲まない高級豆思考派だ。海老尾としては、どこが美味(うま)いんだ…くらいの感覚で、蛸山専用のマグカップに少量のコーヒーを入れ、自動湯沸かしポットの湯を注いだ。
「…で、その後のモレアの販売競争はどうなった?」
「ああ、その話ですか…。どうも効果は一過性ではないようで、数社の競合もなくなったようです」
「と、いうと?」
「どの会社も出荷量が好調なようで、競合する必要がなくなった・・というのが理由だそうでして…」
「なるほど…。患者さんの利用が増えているということだな…」
蛸山は、ひょっとすれば私がノーベル賞候補に…という思いで北叟笑(ほくそえ)んだ。
「ええ…。でも所長はノーベル賞のような晴れがましいものは好かないんでしたよね…」
その言葉を聞いた蛸山は、心中を見透かされたようでギクッ! とした。
「んっ!? ああ、私はそういうものは好かん、好かんっ!!」
蛸山は本音(ほんね)とは裏腹に、全否定した。
「ところで、今研究中の新薬なんですが…」
「モレアの薬効が持続するようなら、まあ、急ぐこともないだろう…」
「ですよね…」
そういいながら、海老尾はふと、夢に現れるレンちゃんのことが浮かんだ。今夜あたり、夢に現れてくれるといいんだが…くらいの心である。
「どうだい? 今夜あたり…」
蛸山は手振りで猪口を傾ける仕草をしながら微笑んだ。
「おっ! いいですねぇ~」
「忙(いそが)しかったから随分、君とは飲んでいなかったからな」
「そうですね。この前は寒かったですから…」
今は、すでに桜の花が綻(ほころ)ぶ春先である。
続
『まあ、ともかく続行して情報をっ!』
『分かりました…』
助手が去り、またしばらくすると、助手がふたたび現れた。
『また君か…。なんだい?』
『今度の情報は、私が解析した結果、もっとも信頼し得る情報かと…』
『本当かい? どうも君の情報解析は信用できんのだが…』
『いえ! 今度の情報は本当にっ!』
『そうかい? まあ、ともかく聞くだけ聞こうじゃないか』
『はい。今度の情報は%&#%%#$%$・・という情報で、つい数時間前のことのようです』
『ほう! なかなかの情報だ。で、現在地はっ!?』
『今現在、尾行して追跡中だとのことですっ!』
『よろしいっ! そのまま追跡を続行させなさいっ! 追って指示をするとっ!』
『分かりました。では…』
慌(あわ)ただしく助手のウイルスが去ると、老ウイルスは腕を組まず[ウイルスですから腕はありません^^]、回転しながら考え始めた。
『こうしちゃおれんっ! とはいえ、海老尾さんは今時分{昼過ぎ}だと研究所で執務中だし、いつもの就寝時間までは、まだ10時間ばかりもある…』
老ウイルスは弱った弱った…と回転速度を増し、ふたたび考え始めた。
その頃、近くの大衆食堂、鴨屋から研究所へ戻った海老尾は、コーヒーを淹れながら、凝った肩を回していた。
「どうです? 所長も…」
海老尾は、今日の鴨屋の肉野菜定食は美味(うま)かったな…と思いながら、店屋物の鰻重を食べ終えた蛸山に訊(たず)ねた。
「ああ、有難う。少し薄めを一杯、頼もうか…」
「はい…」
続
こうして老ウイルスは老骨に鞭うち、様々な情報網を駆使することで悪玉ウイルス情報を集め始めた。いや、集めるだけではなく、秘書ウイルスを使って解析をも始めたのである。^^
『あの…とあるウイルスから情報が届きました』
『どんな情報だい?』
『$#$%&$#$#(&&$・・と申しておりますが…』
『…$#$%&$#$#(&&$だけじゃ追跡できんだろっ!? もう少し詳しく知りたいと伝えなさい』
『分かりました…』
助手ウイルスは、ただちに情報を送ってきたウイルスに伝達した。ウイルス間の伝達は私達の携帯やPCによる伝達より早いのである。秘書は美人だろうな? などとお思いの方もおられるだろうが、ウイルスには性別がありません。^^
三日ばかり経つと、多くの情報が老ウイルスの下に集められた。助手はそれらを解析し、的確だと思われる情報をピックアップして老ウイルスへ伝えた。
『#$""""$""%%・・という情報が届きましたが…』
『#$""""$""%%か…。これはレンさんに伝える必要がありそうだ。で、それはいつだと?』
『二日前だそうです…』
『二日前か…。二日前なら現在地は特定できないな…』
『ですね…』
『ですね、じゃ困るんだよっ!』
『すみません…』
『いや、君が謝るようなことでもないんだが…』
老ウイルスは秘書ウイルスに弁解した。それは恰(あたか)も、研究所の蛸山所長が海老尾に話す語り口調に似ていなくもなかった。
続