このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

吉田松陰の「留魂」(後編)

2024年09月21日 | 日本
「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」

(「尊皇攘夷」)
松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、よく誤解されているように「鎖国を維持して天皇制を守ろう」などというイデオロギーではなかった。「尊皇」とは皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、ということであった。

20年ほど前に、清帝国がアヘンを売りつける英国と戦端を開いたが、国内の分裂で敗れ、半植民地状態に追い込まれた事は、わが国の朝野に衝撃を与えていた。江戸幕藩体制のもとでは日本は各藩に分立しており、国内の統一が急務であることは誰の目にも明らかであった。

「尊皇」とは、天皇を中心として日本を一つの国家にまとめようということで、そのためには徳川幕府を倒して新政府を作ろうという「倒幕」の道と、幕府と朝廷の力を合わせて国家をまとめようとする「佐幕」の二つの道があった。ともに「尊皇」という点では同じである。

「攘夷」も、「鎖国」を続けたまま戦うという道もあれば、「開国」して西洋の技術を導入しつつ防衛を強化するという道もあった。どちらにしても「攘夷」という点では同じである。結局、明治新政府は「倒幕」による「尊皇」と、「開国」による「攘夷」という道をとったのである。

神道思想家の葦津珍彦(あいづ・うずひこ)氏は、「攘夷」の意義について、こう指摘している。

__________
日本民族が国際交通を始める前に、まず攘夷の精神によって独立と抵抗の決意を鍛錬したことは、決して無意味だったのではない。この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、国の独立を守りぬくことができなかったであろうし、植民地化せざるをえなかっただろう。『大アジア主義と頭山満』
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

(「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも」)
「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、そんな生き方をしてみせるつもりです」という松陰の遺志は、その通りに松下村塾の門下生らに引き継がれた。高杉晋作は、こう手紙に書いている。

__________
松陰先生の首が、とうとう幕府の役人の手にかかりました。そうさせてしまったということ自体、まことに長州藩の恥というほかありません。そのことを口にするだけで、私は顔から汗が出てきそうです。先生と私は、師弟としての交わりを結びました。ですから私は、先生の仇を討たないままでは、心安らかに暮らしていくことなど、とてもできません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この後、高杉晋作は元治元(1865)年の「功山寺挙兵」で勝利し、「禁門の変」のあと幕府への恭順を主張する「俗論派」を排斥して、長州藩の実権を握った。その上で、薩摩との盟約を結び、慶応2(1866)年の第二次長州征伐(四境戦争)では、ほぼ10倍の兵力を持つ幕府軍を破り、明治維新への道を開く。

明治新政府が発足すると、松下村塾で学んだ伊藤博文が初代の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布、日清・日露戦争の勝利と、日本国の独立維持の主柱となった。同じく塾で学んだ山県有朋も日本陸軍の基礎を築いて、「国軍の父」と称された。

松陰は生前、門人たちに「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも、魂魄(こんぱく)は此の世に留って、お前たちの身に添うて、必ず私の此の精神を貫く」と断言していた。

この言葉通り、松陰の魂は高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らの身に沿って、日本が天皇の下に一つにまとまり、欧米諸国の侵略から独立を維持するという「尊皇攘夷」の志を実現させたのである。

(「けふの音(おと)ずれ 何ときくらん」)
しかし、その松陰も人の子、自分が死罪となった事を親が聞けば、どれほど悲しむだろうか、と思わざるを得なかった。処刑の7日ほど前には家族あての手紙に、次のような歌を贈っている。

親思う心にまさる親ごころけふの音(おと)ずれ何ときくらん
(子が親を思う心以上に、子を思う親は、今日の報せをどのように聞くのだろう)

この頃、萩の実家では、長男の梅太郎と三男の敏三郎が病床にあり、看病に疲れ切って仮眠をとっていた両親は、同時に目が覚めた。母親はこう父親にこう言った。

__________
私は今、とても妙な夢を見ました。寅次郎が、とてもよい血色で、そう……昔、九州の遊学から帰ってきた時よりも、もっと元気な姿で帰ってきたのです。『あら、うれしいこと、珍しいこと……』と声をかけようとしましたら、突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だったとわかったのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「もしかしたら寅次郎(松陰)の身に何かあったのではないか」と心配していたら、それから20日あまりも経って、江戸から松陰が「刑場の露と消えた」という報せが来た。指折り数えてみると、まさに夢を見たその時に松陰が処刑されていた。

松陰が野山獄から江戸に送られる際に、一晩だけ家に帰る許しを得て、家族と最後の面会をした際に、母親が「もう一度、江戸から帰ってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ』と言うと、松陰は「お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、きっと元気な姿で帰ってきて、お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから……』と言った。

母親はその言葉を思い出して、後にこう語っていた。「たぶん寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、たぶん、ほんとうにそうなのだろうと、私は思っているよ」

(「愛(かな)しき命積み重ね」)
昭和の歌人・三井甲之(こうし)は次の絶唱を遺した。

 ますらをの愛(かな)しき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を
(男たちが悲しい命を幾重にも積み重ねつつ守り続けてきた、この大和の国を)

松陰や高杉晋作らをはじめとする幕末に殉じた志士たちをお祀りするために創建されたのが「招魂社」、のちの「靖国神社」である。そこには「国を靖んずる(しずめる)」ために積み重ねられてきた「愛(かな)しき命」が250万柱近くも祀られている。

正成や松陰の志は幾世代もの世代に継承されて、我が国を護ってきた。これからも日本を護っていけるかどうかは、今後の我々の生き方にかかっている。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 吉田松陰の「留魂」(前編) | トップ | ウズベキスタンの桜(前編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本」カテゴリの最新記事