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信長が目指した「天下静謐(せいひつ)」

2024年07月27日 | 日本
信長は「天下統一」で何を目指したのか?
このシリーズは今日で終わりです。

(信長は勤皇家か、天皇制打倒論者か)
信長の人物像は歴史学界でも大きく揺れ動いています。
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信長と天皇・朝廷との関係という問題については、明治から戦前まで支配的であった勤皇家としての信長論から、戦後一転しての革命家信長による天皇制打倒論まで、信長は天皇とどのように対峙してきたのか、見方の大きな振幅があった。
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金子拓・東京大学史料編纂所教授の『織田信長<天下人>の実像』の一節です。

信長は禁裏(御所)修築を自ら申し出、その費用は1万貫(現在価値でおよそ10億円)と言われています。こういうことをする人物を、どうねじ曲げたら「天皇制打倒論者」などと言えるのか、理解できません。何としてもその方向にねじ曲げたい左翼歴史学者たちには都合の悪い史実は目に入らないでしょう。

この「大きな振幅」は歴史教科書にも現れています。中学歴史教科書でトップシェアの東京書籍版を見ると、織田信長を紹介した人物コラムで、平成27年検定版では、
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「天下布武」をかかげ、武力による全国統一を目指しました。
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と単純明快に書いていましたが、令和2年検定版では、
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これまで、革新的で、古い権威を否定した人物と考えられてきましたが、最近では、そうした人物像が見直されています。
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と、書き直されています。こう言いながら、「どう見直されているのか」言及しない不可思議な記述ですが、ここでも信長の「人物像」にゆらぎが生じていることは分かります。

そもそも東書の最初の発問は「織田信長と豊臣秀吉は、どのように全国統一を進めたのでしょうか」となっています。「どのように」という説明のために、将軍の追放やら長篠の戦いやら安土城築城やら楽市楽座など「どのように」全国統一を進めたのか、その行動は書かれていますが、「何のために」は書かれていません。

これでは信長は何を志した人物なのかが、全く分かりません。「勤皇家」なのか「天皇制打倒論」者なのかは、信長の志に関わる重要ポイントですが、これだけの振幅がある、ということは、歴史研究者の中にはプロパガンダ発信者も混じっている、ということでしょう。日本人なら誰でも知っている信長ほどの人物ですらこんな状況では、まともな歴史教育など望めないようです。

(「天下布武」は「武力による全国統一」か?)
まず、東書の以前の版での「天下布武」を「武力による全国統一」と解釈すること自体が見直されています。この点は、弊誌「織田信長の『和の国』再建」でも紹介しましたが、「布武」とは、「将軍による秩序回復」を意味した、と神田千里・東洋大学文学部教授は指摘しています。

神田教授によれば、信長は尾張・美濃の二国の大名に過ぎない頃から、同盟者の越後の上杉への書状にも「天下布武」の朱印を使い始めています。周囲には越前の朝倉、関東の北条、甲斐・信濃の武田らの大大名が群雄割拠している中で、いまだ弱小大名の信長が「武力による全国統一」などという大言壮語を標榜するはずがありません。

京都の幕府がしっかりしないから戦乱が続いているのであり、幕府政治を再確立しよう、という志であれば、大大名たちも大目に見てくれたでしょう。こういう説得力ある説が登場したので、東書は「武力による全国統一」という解説を引っ込めたのでしょう。

(天下静謐を妨げる勢力との戦い)
将軍を中心とする秩序回復を「天下布武」とすれば、信長が将軍・義昭を連れて入京した永禄11(1568)年に実現したと言えます。そして、金子教授は「天下布武」達成後の信長の政治理念は「天下静謐」だったとして、次のように主張します。
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・・・信長の行動を、彼に課された役割を念頭に置いて眺めると、支配領域を拡大し、最終的には全国統一をめざしていたかのように受けとめられていた行動が、実は天下静謐を維持するためであったことに気づかされるのである。
信長のいくさとは、もっぱら天下静謐を妨げていると彼がみなした勢力との戦いであった。それらを討つことが、結果的に彼の支配領域の拡張をもたらした。
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たとえば、信長は永禄13(1570)年正月、諸大名に上洛(上京)をうながす文書を出しました。
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禁中御修理や幕府の御用、そのほか天下いよいよ静謐のため、来る中旬には参洛(上京)すべきである。おのおの上洛し、将軍にご挨拶を申し上げ、働きを示すことが大事である。これを先延ばしにしてはならない。
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越前の朝倉義景にもこの上洛命令が出されましたが、義景はこれを無視しました。そこで信長は、その年の4月、義景を攻めるため越前に兵を出しています。

元亀3(1572)年には三好義継、松永久秀が信長に反旗を翻し、河内を拠点に兵を上げました。信長は義継・久秀を「成敗」するため、重臣柴田勝家の軍勢を差し向けますが、この時に将軍・義昭から「天下の為に」軍勢派遣の命令を出して欲しいと要請しています。この戦いは「私闘」ではなく、将軍からの命に従って「天下静謐」を乱す輩を「成敗」するという公的な形にしたのです。

(天下静謐のためには将軍も容赦しない)
この要請にも見られるように、信長は「天下静謐」のためのしかるべき政治形態が必要と考えていました。この点を、脇田修・大阪大学名誉教授は、著書『織田信長 中世最後の覇者』の中で、こう指摘しています。
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つまり天皇には政治的かつ祭祀的に、これ(天下静謐─引用者注)に勤める役があり、将軍はそれを補佐する役をおっている。(中略) 天下静謐と天下安穏は、天皇家や将軍家をこえて守るべき徳目だったのであり、この論理は逆にとれば、天下のためには将軍もあるいは天皇すら容赦はしないということになる。
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ところが、将軍・義昭は私欲むき出しの人間で、朝廷が改元を希望しているのに、義昭が費用を出さないので実施できず、さらには幕府に備蓄されている米を売却して金銀に換えたりまでしていました。このような義昭に対し、信長は元亀3(1573)年に「十七箇条の諫言(かんげん)」を出しましたが、それも聞かず、かえって信長に敵対の兵を上げる始末でした。

ここまでくると、信長も、こんな人物では「天下静謐」を守る将軍には失格だと追放してしまいます。これにより足利幕府が滅びますが、それは信長が将軍の権力を狙ったためではなく、あくまで「天下静謐」を実現するためだったのです。

(天下静謐のためには「天皇すら容赦はしない」)
信長は天下静謐のためには「天皇すら容赦はしない」態度を見せています。

天正4(1576)年6月頃、興福寺の首座である別当の選任について、朝廷内で争いが起こりました。興福寺は藤原氏の氏寺であり、手続きとしては次期別当となることが内定した僧侶に対して、藤原氏の氏長者が任命し、それを受けて天皇が勅許(ちょっきょ)を出す、という手続きがなされていました。

信長が本願寺攻撃軍の危急を支援して、足を負傷しながら激戦を指揮し、ようやく一月ほどかけて布陣を立て直して京都に戻った時、2人の候補者の主張がぶつかり合って、収拾がつかなくなっていました。信長は双方の意見を聞いた後、関白二条晴良宛てに、「従来の手続きにしたがって、藤原氏の氏長者である晴良が決定すべき」との書状を出しました。

信長はこれで解決したと思って、その日のうちに安土城に帰ってしまいました。ところが、あきらめない別の候補者に働き掛けられた天皇が、再度、その候補者を推すとの書を信長に送って来たのです。

信長は武家の長として、天下静謐のための戦いに忙殺されているのに、朝廷内部の混乱まで持ち込まれるのは、自分の本来の仕事ではない、と考えていました。朝廷内のことは天皇とその側近がしっかり判断をしてくれなくては、「天皇の威信が失われます」と苦言を呈しました。

これには天皇の代理として誠仁親王から、「先日の判断を後悔されております。これからも何事もしかるべくご意見を下さい」という「詫び状」が届きました。

天下静謐のためには、天皇が権威の源泉としてしっかり朝廷を導き、そのもとで武家の長が権力と武力をもって、天下静謐を乱す輩と戦う、という体制が不可欠である、と信長は考えていたのです。おのれが独裁者として、自由に権力を振るうことを目指していたら、天皇に対して、「しっかりした判断をしてくれ」などと注文はつけなかったでしょう。

(日本国の「平和的な統一策」7項目)
信長の目指した「天下静謐」とは、単に世の中の平和だけでなく、経済社会の発展そのものを目指していました。坂本太郎・東京大学名誉教授は、「後年秀吉によって行われた天下経営策の多くがその源を信長に持つことは、すでに史家の定論であり、我々は武将信長よりも経世家信長に大きな価値を見いだすのである」と述べています。

坂本教授は、日本国の「平和的な統一策」として、次の7項目を挙げています。

(1)交通の整備: 関所の撤廃、道路の修築、橋梁の架設など。これにより諸地方の交易が発展し、経済が発展した。

(2)楽市楽座: 独占的な市場や座を否認し、自由な商売を許して、産業の発達を招いた。

(3)都市の保護・育成: 安土、京、堺、大津などの経済的都市は自らの直轄地として都市商人の保護育成を図った。

(4)貨幣の統一: 中世には各種の貨幣が乱れ行われていたが、それらの換算基準を定め、さらに統一的な新判金を鋳造した。

(5)鉱山の管理: 生野銀山を直営として代官を置き、採掘に当たらせた。

(6)検地: 各地の土地を測量し、その課税額と耕作者を定めた。これにより土地争いの芽を摘んだ。

(7)キリスト教の保護: 腐敗した仏教界の反省をうながし、新文化流入の道を広めた。(ただし、後にキリシタンの日本侵略意図を見抜き、防衛策に転じた。[バテレンの侵略から日本を守った信長・秀吉・家康の戦い]

これらはかならずしもすべてが信長の独創ではありません。当時の大大名たちが領国内で実施していた政策もあります。信長の独創性は、政策の創案ではなく、それを全国規模で徹底して実施しようとした点にあります。

(皇室の権威のもとで全国統一に成功した信長の志)
徳富蘇峰(そほう)は大著『近世日本国民史』全100巻を織田信長から始めています。蘇峰の志は明治天皇の一代記を描くことでしたが、そのためには江戸時代を描かねばならず、江戸時代の国家統一を成し遂げたのは、信長-秀吉-家康の三英傑の偉業だという史観からです。

三英傑による国家統一は、日本史上空前の規模のものであったと蘇峰は指摘します。平安時代までは東北の蝦夷などの統合はされていませんでした。鎌倉幕府は全国統一と言っても、貴族や寺社にまでには支配は及んでいませんでした。室町幕府に至っては南北朝の分裂があり、後半は群雄割拠の戦国時代でした。

秀吉の時代に、我が国は真の統一を迎えたのですが、それは信長がやりかけた統一事業を完成させたということです。

しかし、信長はその出発点において、同時代の大大名たちに比肩しうる実力者ではありませんでした。北陸の上杉、甲州の武田、駿河の今川、関東の北条、中国の毛利・尼子、九州の大友・島津、東北の伊達・最上・佐竹など、群雄が各地で割拠していました。その中で、なぜ信長が全国を統一できたのでしょうか?

蘇峰は信長以外の群雄は、それぞれ地方の雄で満足していたか、あるいは、天下を狙っても何をしよう、という志はなかった、と喝破しています。その中で、信長は「天下布武」、次に「天下静謐」という明確な目的意識を掲げていました。その陰には、日本全国を一まとまりの政治単位とし、皇室の権威のもとに、武家として権力を使う、という明確な国家ビジョンがありました。
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日本を政治の単位となし、皇室を政治の本位となす。ただ此の一事だけでも、信長は実に近世日本の偉人というべきである。
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信長を「尊皇家」と言っても、それだけでは信長の真価は表現されていません。戦国時代において、皇室の権威は衰微し、経済的にも困窮の極みを迎えていました。その戦乱の時代は、足利一族の私欲に満ちた、まるで理想も見識もない武将たちが天下をとったところから始まりました。

その混乱を克服し、全国を統一したのは、皇室の権威を高め、その下で自身の政治によって天下静謐を実現するという志を持った信長によってでした。信長の「天下静謐」は、神武天皇の「一つ屋根のもとに」「大御宝(国民)を鎮むべし」という建国宣言の実現を目指したもの、と言えるでしょう。信長の全国統一は、日本建国以来の祈りに則ったものでした。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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