時々、なぜキリスト教が世界宗教になったのか、
不思議に思うことがある。
わずかばかりの弟子にさえ裏切られて、
最大の辱(はずかし)めを十字架上で経験する開祖(かいそ)。
イエスにみじめさや悔(くや)しさがなかったら、
嘘(うそ)になるだろう。
天の父の一人子(ひとりこ)とも語ったのに、
イエス自身を救うこともできなかった。
ただ思うことは、
自分が信仰の試(ため)しに際し、
無力であったことを、
イエスが謙虚(けんきょ)にうけとめていただろうということだ。
開祖がこの世的無力さの極(きわ)みで死んでいったので、
後世の弟子たちには、
この世的に執着(しゅうちゃく)するものがなくなったのであろう。
おそらくは、
仕事も地位も、
学歴も収入も、
この世的名誉(めいよ)や、
見栄(みえ)も、
何も要(い)らなくなったのであろう。
弱さの極みを経験することで、
逆に宗教的人格は強められるのである。
ご利益宗教が、
自己犠牲(じこぎせい)の宗教に敗(やぶ)れる瞬間(しゅんかん)である。
私たちも、自分の立場の有利不利だけで、
信仰を左右されすぎてはいまいか。
この世のものは、すべて過ぎ去るのだ。
信仰だけを持って、あの世に還(かえ)るがよい。
---owari---
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