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花のお江戸の市場経済(後編)

2020年09月07日 | 日本
(両替商の銀行業務)
両替商は、為替取引や預金・貸付け、手形取扱いなど、現代の銀行とほぼ同じ事業を行っていた。江戸-大阪-京都の三都間では本格的な為替取引が行われていた。たとえば、幕府の大阪御金蔵から江戸への公金輸送と、江戸商人から大阪商人に支払われる商品代金を相殺する形で、決済していた。

商人は両替商に預金口座を開いて、稼いだ貨幣を預けた。現代の当座預金にあたるもので無利子だったが、信用のある両替商と取引がある事は、その商人自身の信用を高めた。両替商は取引を希望する商人がいれば、身元や財産状況を徹底的に調べてから、口座を開いた。

両替商の中には大名に貸付けを行うものもいた。諸大名は天下普請や参勤交代で出費がかさむ一方、年貢収入は頭打ちだったため、その財政状態は窮迫(きゅうはく)していた。そこで家老や留守居役が藩主の代理人として、両替商一同を料理屋などで接待し、借金を頼む。両替商達は、その大名の信用状態によって、貸出し総額を値切ったり、時には断ったりした。また貸出しが焦げついた時の危険分散として、何人かの両替商がシンジケートを組み、貸付けを分担したりした。現代の銀行に大企業に融資するのとまったく同じである。

大名側は地位を利用して、借金の踏み倒しを行う例も少なくなかった。肥後熊本の細川家などはその常習犯で、「細川家は前々から不埒(ふらち)なるお家柄にて、度々町人の借金断りこれあり」などと記録にも残っている。こういうブラックリスト情報は両替商仲間にすぐ伝わって、組織的な貸し付けボイコットや年貢を担保に求められるようになった。大名の権威も、市場経済システムの前ではかたなしだった。

(通貨政策による物価安定)
諸大名は領地でとれた米を大阪で売って銀を得ていた。大阪の米市場では需給関係から米価が決まり、その変動を見越した投機や、先物取引(将来の一定期日にあらかじめ約束した価格で商品を売買する取引)が行われていた。

近代的な商品先物取引が本格的に成立したのは1865年のシカゴ商品取引所だと言われているが、同所の発行する「商品取引便覧」には、「1730年代に、日本の大阪において先物取引を含む商品取引所が存在していたことは驚くべき事である」と、大阪堂島の米市場を紹介している。

大名側が増収方策として米の増産に励んでも、米の供給が増えるほど米価が下がって収入は伸びない。その反面、その他の商品の物価は上がり続けた。幕府は米価の維持のために、米の買い付けを大阪の豪商に命じたり、大阪御金蔵の資金によって自ら買い付けたが、それを売りに出すとすぐにまた米価は下がってしまう。

幕府は困って大阪の両替商たちに米価維持策を相談した。両替商達は、米が安いのは通貨の質が良すぎるのと通貨供給量が少ないためだから、貨幣供給量を増やすように、と答えている。この策を直接聞き入れたためかどうかは定かではないが、幕府は実際に貨幣の金や銀の含有量を下げる貨幣改鋳を行って、米価の上昇と、諸物価の安定にある程度成功した。

現代でも円高を避けるために、政府が円売りドル買いをしたりするが、幕府の米買いによる価格維持策はそれと同じである。また両替商たちはすでに通貨の質や供給量が物価にどのような影響を及ぼすのか、すでに理解していた。通貨政策で物価の安定を図るという現代マネタリズム流の手法は、20世紀の社会主義経済での公定価格制などよりもはるかに先進的である。

(問屋株仲間は業界団体)
商品経済の発達につれて幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めた。江戸中期の老中、田沼意次は現在の同業者団体にあたる「問屋株仲間」を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を始めた。

問屋株仲間はもともと米、酒、塩、味噌、炭など、生活必需品12品目の高騰を規制するために、同業組合として幕府が結成を命じたもので、株とはその会員権をさした。田沼時代末期の大阪では130にものぼる問屋仲間が公認されていた。

問屋株仲間に入っていない業者が勝手に商売を行った場合は、幕府に訴えれば処罰してくれた。また株仲間の一部が幕府の規制に触れる行為を行うと、株仲間全体が連座して処罰の対象となったので、そのような事態を防ぐための自治活動が行われた。新入りの仲間に対する厳しい選別過程はもとより、仲間の跡取りの品行をチェックして、道楽者、怠け者を排除したり、嫁取り、婿取りに対しても、全員の承認が必要だった。

問屋株仲間は幕府の指導・統制を個々の業者に伝える「上意下達」だけでなく、業界としてのコンセンサスをとりまとめて、幕府に伝えるという「下意上達」の機関でもあった。これは現在の経済産業省が、業界団体を通じて間接的に各事業者を統制するという現在のやり方と同じである。ただ間接税も業界団体を通じて徴収するという点は異なる。

(4百年にわたる市場経済システムの進化)
公共投資政策としての天下普請、需要喚起策としての参勤交代、通貨政策や需給調整を通じた物価安定策、高度な物流や金融のシステム、間接税、そして業界団体による間接的な事業者統制、こう見てくると江戸時代に発展した市場経済システムは、現代にそっくりである。

明治維新後の「文明開化」が急速に進んだのも、こうした近代的な市場経済システムが実態としてすでに江戸時代から存在してからである。経済史的に見れば、明治維新や大東亜戦争敗戦という転機にもかかわらず、江戸時代から現代まで、わが国の市場経済システムは環境変化に適応しながら、400年間に渡って連続的に進化してきたものである。このあたりはロシアや中国とは根本的に異なる。

こう見れば、たとえば政府(官)と個々の事業者(民)の間に業界団体(公)を設けて業界としての自治を求めるなどという日本流のやり方が、アメリカ流「グローバル・スタンダード」に欠落しているからと言って、一概に時代遅れの産物であるかのように見なすのはおかしい事が分かる。歴史の浅いアメリカの市場経済システムが、まだそこまで到達していないだけの事かもしれない。

わずかここ10年ほどの経済の不振で、我らの父祖が400年にわたって成長させてきた市場経済システムを弊履(へいり)(破れた履物、何の価値もないもの)のように投げ捨てて、「グローバル・スタンダード」に走るのは、歴史に学ばない愚か者のすることだ。市場経済システムを、どう新しい時代と環境に適応させ、その長所を強みとして発揮させていくべきか、と考えていくべきだろう。

---owari---
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