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華岡青洲の志

2016年05月19日 | 日本

華岡青洲(はなおかせいしゅう)は麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を発明し、世界で初めての全身麻酔による乳ガン摘出手術に成功した外科医です。

 

このお話は、1966年に発表された有吉佐和子さんによる小説『華岡青洲の妻』により、医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知されることとなったのです。

 

漢方から蘭医学への過渡期に新時代を開いた紀州の外科医華岡青洲。その不朽の功績の陰には、麻酔剤「通仙散」を完成させるために進んで自らを人体実験に捧げた妻と母とがあった。

この小説は美談の裏にくりひろげられる、青洲の愛を争う二人の女の激越な葛藤を、封建社会における「家」と女とのつながりの中で浮彫りにした女流文学賞受賞の力作でした。

 

この小説は華岡青洲の功績を、実母と妻との「嫁姑対立」という現代にも通じる問題に絡めながら、実母や姉・妻の献身的な協力無くしては成されなかったものとして描いているが、青洲の「妻」を主題にしたため、青洲自身の心境についてはあまり語られてはいません。

今日は青洲自身の志と功績を中心にお話したいと思います。

 

青洲は宝暦10年(1760年)に華岡直道・於継(おつぎ)の長男として生まれました。

青洲の父「直道(なおみち)」も医師で、青洲は幼い頃から病や怪我に苦しむ人々を見て育ち、自分も医者になって人の命を救いたいとの思いを抱きながら成長しました。

 

23歳の時から3年間、京都に遊学し、寝食を忘れて古医方、オランダ医学系統の外科学や儒学を学んだ。傍ら多くの人と交わって儒学や各派の医学を研究した。京都遊学3年にして父の死去により、26歳で家業を継ぐことになった。その後36歳の時、再び京都に行き、製薬等の勉学をしている。その主目的は麻酔薬の研究でした。その頃青洲は麻酔薬の必要を痛感し、諸方の薬を集めることに余念がなく、その成果の一部は『禁方録』や『禁方集録』などにまとめられた。

 

当時切除により初期乳癌が治癒するという考え方は専門家の間にあったが、患部の切除手術には患者を無意識、無痛の状態にする必要があった。京都から紀州平山に帰郷した青洲は診療のかたわら麻酔剤の研究に努めた。

 

長年にわたる研究過程で、この当時としては新しい「実験」という手法を繰り返し、動物実験の成功後、母「於継(おつぎ)」と妻「加恵(かえ)」が自分の体を使って麻酔薬を試してほしいと自ら申し出たので、大切な妻と母を被験者として実験をおこないました。

 

文化元年(1804年)10月、青洲45歳の時、ついに麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を完成し、世界初の全身麻酔下の乳ガン摘出手術に見事成功しました。華岡青洲の名声は日本全国に轟き、多くの難病患者や、青洲の医術を学びたい医学生が紀州平山を訪れるようになりました。

 

麻酔薬の完成によって華岡流外科は手術手技も多彩を加え、従来の外科医が行い得なかった腫瘍摘出術、関節離断術、膀胱結石摘出術、腟直腸瘻閉鎖術、内翻足整復術をはじめ各種の手術法を考案し、相当の成果を挙げることができたのでした。

大成して天下に名声が広まった青洲は、民衆に対する医療尊重の故をもって、紀州藩主徳川治宝より侍医となり城下に住むことを求められたが、再三断わり、特例の勝手勤めで藩の侍医待遇となりました。

 

青洲は紀州藩の御殿医に呼ばれた時に、「私は一人(紀州藩主)よりもより貧しい人達のお役に立ちたい」と、今で言う“地域医療”に尽くしたいと言ったのです。御殿医という名誉職よりも、病に苦しんでいる貧しい人達を救いたいという行動が今も紀州の人達に慕われて語り継がれているのです。

 

公職に就いても一般患者の診療を続けたいという青洲の願いは認められ、一生を在野にあって診療の第一線で活躍しました。南紀の僻村(へきそん)に青洲の盛名をしたって集まる向学の医学生はおびただしい数にのぼりました。

青洲の華岡流外科を学ぶために、全国からたくさんの医学生や患者が集まってきましたので、建坪220坪の診療所兼医学校 「春林軒」を開設して、多くの患者の命を救うとともに、医学生の教育にも力を入れました。「春林軒」は1814人の卒業生を送り出しています。

そして、青洲の考案した新しい手術法を全国で行うようになり、青洲が後の医学に与えた影響は大変大きかったといわれています。

 

青洲というと、麻酔の話ばかりになりがちですが、手術用の医療器具を自ら考案して作っており、メスやカテーテルなど多くの医療器具を使って手術をしています。

また、青洲は隣人や地域を愛した人でもありました。栄養が十分でないと病気に負けるからと、地域のために「ため池」をつくり、農業生産を上げて生活を豊かにしようとしました。そこまで考えた人だったのです。

 

青洲は最初の乳がんの手術で、手術を受ける人に、この病気には通仙散という薬を使い、痛みを取るようにしてから手術する、と説明しています。いわゆるインフォームドコンセント(十分な説明に基づく同意)です。この薬を使えば、死ぬかもわからない、と話をしている。これも当時としては珍しいことです。それで日本の外科は大きく変わりました。

 

また、青洲のすごいところは、麻酔という概念を作ったことといえます。青洲以前は、患者が痛がっていても、素早く手術をするのが名外科医だったわけですが、麻酔を使うことにより、時間をかけて手術ができるようになったわけです。麻酔という言葉はもっと後ですが、この概念を作ったのは世界で初めてだと思います。

 

近代麻酔の起源とされるアメリカ人医師ウィリアム・モートンがエーテル麻酔下手術の公開実験に成功したのが1846年のことですから、青洲の功績はそれに先立つこと約40年前の快挙でした。

 

華岡青洲が世界で初めて全身麻酔下に乳がんの手術を行ったことは、1954年(昭和29年)に国際外科学会で報告されました。その開催地シカゴには人類の福祉と世界外科医学に貢献した医師を讃える国際外科学会の栄誉館があり、現在も青洲に関する資料や青洲、母於継と妻加恵が描かれた絵が展示されています。

 

そして、日本麻酔学会はシンボルマークとして、通仙散(つうせんさん)の主成分である曼陀羅華の花をシンボルマークとして採用しているのです。

 

通仙散は、エーテルなどガスの麻酔薬が出てきて、押しのけられてしまいます。和の医療は、明治維新を境にして静かに消えていったのですが、だからといって、手術に伴う患者の苦痛を和らげることに成功した青洲の偉業の価値が下がるわけではありません。

 

青洲は天保6年(1835年)旧暦10月2日、全身麻酔薬の発明という偉業の完成と、多くの人々の命を救うことに捧げた生涯を終えました。享年76歳でした。

 

青洲が妻や母の犠牲を超えて、広く患者を救いたいと願い、実行したその行為が、母や妻を思う愛と同じように人々を救いたいと願ったその志が素晴らしかったからこそ、世界初の全身麻酔手術成功の快挙が得られたのではないでしょうか。

 

その志の高さは、日本人が世界に誇れるスピリッツではないのでしょうか。

青洲とそのご家族の献身的な志と偉業に対して感謝いたします。

 

---owari---

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