自己を客観視することは難しかろう。
たいていの人たちは、本能の赴くままに生きているし、
それが主観のままに生きていることと、同義だとも知らない。
しかし、自己を客観視できるということが、
霊的生活、霊的目覚めへの始まりでもあるのだ。
「自分」だと思っているものが、肉体的五官によって、
突き動かされている感情に過ぎないと知るのは、
哲学や宗教の始まりでもある。
外側から自分を観るという立場は、
守護霊的存在の目を意識するということでもある。
そしてそれは、悟りの深まりによって、
神仏の目で自己を眺めるということにつながる。
かくして、自己の客観視には、宗教的真理を学ぶ必要が出てくるのだ。
信仰をもつ者を軽んじるべきではない。
霊的な自己が分からないということは、
「無知」であるということだ。
この霊的な目で、この世の人びとが自慢していることを眺めるがよい。
いずれあなたは、この世を去る存在だ。
すべてを捨てて、真なる心だけを持って、あの世へと移行する。
その時、「照魔の鏡」で、自分の肉体人生が映し出される。
「自己の客観視」が、死んでからできる人は、
やはり哀しい存在だ。
---owari---
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