あなたがたは、成功というものに惹かれているに違いない。
日々、成功というものに惹かれているに違いない。
日々、成功とは何かを考え続けているに違いない。
しかし、成功とは、
あなたがたが考えているものとは、
遥かに隔たったものであるかもしれない。
あるいは、成功とは、
実はすぐあなたがたの間近にあるものであるかもしれない。
その成功の意味について、定かな定義があるわけではないであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておこう。
真に成功したと言えるためには、
どうしても外してはならないものがあると思える。
①常に心穏やかに
成功の条件として、
心が乱れるような成功であれば、これは成功とは言わない。
心は、常に穏やかで落ち着いていなければならない。
心は、常に平静で、とらわれがないものでなければならない。
成功することによって、とらわれが増えてゆくならば、
その成功は真なる成功ではない。
私は、そう思う。
成功することによって、
心ますます穏やかとなり、
心ますます平静となり、
心は常に豊かさを含み、
多くの人びとのことを考えることができる時に、
成功は本物となる。
私はそのように思う。
②妬みをかうな
成功の途上において、
さまざまな葛藤をつくり、とらわれをつくり、
恨みをかい、妬みをかうようであっては、
真の成功であるとは言えない。
ゆえに、成功のための第二の条件として、私は言っておこう。
人びとの妬みをかってはならない。
いまだかつて、人びとの妬みをかって大成功した人はいない。
一見、成功したかに見えても、妬みをかった者は、
多くやがて没落の淵に沈んでいるようだ。
そう、人びとから妬みをかうということは、
あなたがたの成功が、
実は他の人びとの頭の上を押し付けた成功であるということなのだ。
他の人びとの肩の上に乗った成功であるということなのだ。
他の人びとに重荷を押し付けて、
そして後の成功であったということなのだ。
もし、あなたがたの成功が、
他の人びとの荷物を持ち、他の人びとの生活を楽にし、
他の人びとを幸せにしてゆくためのものであるならば。
あなたがたの成功は、
決して他の人びとの妬みをかうことはないであろう。
決して他の人びとの恨みをかうことはないであろう。
しかし、万一もし、あなたがたの成功を妬む者が
一人でもあるとするならば、
まだまだ徳が足りないと思わねばならない。
まだまだ徳が足りないのだ。
徳が足りないということはいかなることか。
それは、あなたの成功によって、
損をしたと思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を
不当なものであると思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を、
承認しがたいと思っている人がいるということだ。
そのような成功であってはならない。
真なる成功は、自然しぜんに、まわりの人によって、
押し上げられてゆくような成功でなければならない。
真なる成功は、
自ら意図するものでなく、
自然しぜんにその結果が出てくるようなものでなくてはならない。
真なる成功は、
ほんとうに多くの人びとに感謝されるものでなくてはならない。
多くの人びとから感謝されることなくして、
真なる成功というものはないと思わねばならない。
私はそう思う。
③悟りの香りを
成功の第三の条件についても述べておくとしよう。
心の平静と人の妬みをかわない態度が大事であると述べてきたが、
それ以外にも、成功のためには大切な心構えというものがある。
それが何であるかというならば、
あなたがたの魂の輝きが増してゆかねばならないということなのだ。
魂の輝きが増してゆくということの意味がわかるであろうか。
それは、悟りの香りが漂わねばならないということなのだ。
悟りの匂いが漂わねばならないということなのだ。
悟りの香りとは、魂の光とは、いったい何であるか。
それが、あなたがたにはわかるであろうか。
私はあなたがたに言っておく。
悟りの香りとは、得ようとして得られるものではない。
奪おうとして奪えるものではない。
決してそのようなものではない。
悟りの香りは奪わずして得、
得んと欲せずして得るものである。
ちょうどあの蝶が、
手に入れようとして網を持って追いかければ、
空高く逃げ延びてゆくが、
何もせずにじっとしていると、
自然と降りてきて、肩の上にとまりて憩うようなものである。
このように、悟りとは、
本人の意図には反して、ごく自然しぜんに、現れてくるものである。
そして、芳醇な香りによって、
その人とその人のまわりとを潤してゆくのだ。(仏法真理)
---owari---
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