あなたがたの心のなかには、
実はどうすることもできない粗暴な大男がおり、
またその大男に対して、おびえ、恐れおののく、
小心な自分というものがある。
誰の心のなかにも、こうしたものはあるのだ。
自分の心を統御しようとしても、
どうしても欲望にひかれてゆく心があるはずだ。
その欲望にひかれている心は、
たとえば、異性を見ては、心が狂い、
金銭を見ては、心が狂い、
また他人の持ち物を見ては、心が狂い、
あるいは、他の人が幸福になるという話を聞いては、心穏やかではない。
そうした荒れ狂う台風のように統御できないものが、
自分のなかにあるはずだ。
その統御できないものこそ、
心のなかの大男であるのだ。
しかし、この統御できない大男も、
かつて鎖につながれていた時に、
どこかの誰かに統御されてきた、
支配されてきた、
飼い慣れされてきたという、懐かしい気持ちが残っている。
その懐かしい気持ちを想い起こさせたならば、
すなわち懐かしい笛の音を聞かせてやったならば、
この大男をおとなしくすることはできるのだ。
それは、もっともっと力の弱い、小さな者であっても、
その大男を統御することができる。
その通り――。
まず恐れというものをなくさねばならない。
自分の心は自分の手に負えぬものだと思ってはならない。
自分が自分でないような、
まったく魔に踊らされ、魔に自由にされるような、
そんな自分であると思ってはいけない。
自分は必ず、自分自身の心を統御できると思わなくてはならない。
そして、統御する方法はというと、
実は決して腕力によって統御するのではない。
脅かしたり、傷つけたりすることによって、統御するのではない。
これは何を言っているかわかるだろうか。
それは決して難行・苦行によって、
自分の心を統御することができるわけではない。
ということを言っているのだ。
滝行をしたり、あるいは断食行をしたり、
いろいろな難行・苦行があるが、
難行・苦行によって、
その心をなだめよう、心を統御しようとする試みは、
弓矢を射かけたり、あるいは罠をしかけたりして、
大男を何とか取り押さえようとするのと同じで、
かえって大男を凶暴にさせてしまうことになるだろう。
心はいっそう自由にならなくなる。
そうではない。
もっと平和的で、
もっと小さな気づきを用いて、
もっと楽しい方法によって、
心というものは統御できるのだ。
つまり、私は、
決して非凡な世界のなかに悟りというものがあるのではない。
決して非凡な経験のなかに悟りというものがあるのではない。
ということが言いたいのだ。
日々の平凡な生活のなかに、実は悟りへのよすががある。
実は、悟りへの道があるのだ。
そして、平凡な日々のなかの、
平凡な一日一日のなかの悟りとは、
実は、ほんの小さな発見にあるということを、私は言いたいのだ。
ほんの小さな発見とは何であるか。
それは、かつて、私たちが実在界・天上界にいた時に、
知っていたところの音色だ。
その音色を想い起こすということなのだ。
私たちが悟りに到るためには、
実在界で味わっていたところの、その音色を思い出すことだ。
それが、大事なのだ。
実在界で味わっていた音色とは何であるか。
それは、人に対する優しい気持ちでもあっただろう。
人に対する祝福の気持ちでもあっただろう。
また欲望を強くせず、足ることを知る心でもあっただろう。
あるいは、共に相和し、共に協力し合い、
共に生かし合う姿であっただろう。
決して、自分一人が幸福になろうとする心ではなく、
また我欲をつっぱるのでもない、
そういう姿があっただろう。
限りなく透明感に溢れ、限りなく優しい、限りなくあたたかい、
そうした気持ちがあったであろう。
しかり、そのような世界こそが天国である。
このように地上に降りて生きていても、
この天国のことを思い出して、日々、生きることだ。
天国の生活を、日々、想いにおいて描いて生きることだ。
さすれば、その時に、大男は静まり、やがてあなたがたの敵ではなくなるだろう。
あなたがたを味方し、あなたがたの思いのままに動いてくれる、
大切な大切な力となるであろう。(仏法真理)
---owari---
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