その理由を探っていくと、日本の奥深い「料理人道」が見えてくる。
(職人を育て、認める仕組み)
ロブション氏自身が歩んできた職人の道を、朝日新聞はこう紹介している。
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フランス中西部、ポワティエ市の小さな食料品店に生まれた。貧しいが、信仰心の厚い親の影響で、神父になりたいと思い、12歳で神学校に入った。厳しい修道院生活では、料理をする修道女を手伝う時だけ、心が休まった。15歳の時、経済的事情で神学校をやめると、迷わずパリの大ホテルで料理人見習いになった。
レストランを渡り歩き、28歳でパリの大ホテルの総料理長に就いた。31歳で「フランス最優秀職人賞」を受賞。36歳で自ら開いた「ジャマン」は3年後、レストランガイド「ミシェラン」の三つ星に輝いた。
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料理一筋の職人の世界で、人を育て、認める仕組みがある事が、フランス料理界の強味なのだろう。しかし、料理人を厳しく鍛える伝統においては、わが国も負けてはいない。
一人前の「板前」、すなわちカウンターの向こうで料理する職人になるには、次の仕事をそれぞれ数年かけてマスターしていかねばならない。
「洗い場、追い回し」(料理の仕込みと鍋洗い)
「盛り付け」(料理を盛り付ける役割)
「焼き場」(炭火で魚を焼く。ここからが料理人)
「向こう板、花板、回し」(仲居がとってきた注文を調理場にとりつぐ)
「煮方」(蒸し物、揚げ物などすべてやる。これを卒業したら、店を持って良い。)
こうした長年の厳しい修行を積んできた料理人が、人間的にも深みを持つのは当然だろう。
ちなみにミシェランガイドでは星付きの店が、パリの74軒に対して東京は2倍以上の150軒。料理人道の厳しさと、その結果としての実力、地位の高さはパリの上を行くのではないか。
(トップスター料理人が始めた料理カウンター)
料理人の地位は、昔はさらに高かったらしい。日本で料理カウンターを広めた料理人は塩見安三である。明治28(1895)年に生まれ、昭和46(1971)年まで生きた。当時の一流の料理人は二人一組で全国の有名な店を渡り歩いて、仕事をしていたらしい。
塩見安三の孫で、その流れを汲む「銀座浜作」を経営している塩見彰英さんは、こう書いている。
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うちの安三おじいさんと(相棒の)出井豊三郎さんは広島の料亭へ出かけて行った時など、トップスター並みの人気ぶりで、それこそ街をあげての大評判。店には客が殺到して大変だったといいます。
給料は百円とれれば一人前の板前と言われた大正当時、安三おじいさんは500円もらっていたと聞きました。
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大正半ばの国立大学教授の月給は70円というから、今の感覚で教授が月給70万円としたら、一人前の板前が100万円、塩見安三は500万円という所か。まさにトップスターである。
この塩見が大正13(1924)年にカウンター形式の店「浜作」を大阪で始めた。客の目の前で、当時のトップスター料理人が腕を振るうのを見られる、という事もあって、たちまち大評判となったようだ。値段も当時の一流お座敷料理屋を時には上回ったという。しかし塩見自身は無愛想だったというのだから、面白い。
後に「浜作」は東京に進出し、白洲次郎や谷崎潤一郎、菊池寛、岩波茂雄など、文化人、財界人に贔屓(ひいき)にされた。来日したチャップリンやマリリン・モンローまで来たという。
客が料理人の腕を振るう様を喜んで見たり、料理人と話を楽しめるというのは、客の方にそれだけ職人に対する敬意がなければ成り立たない話である。カウンター形式が日本において広まったのは、厳しい料理人道と、そこから生まれる料理人への敬意が社会にあったからであろう。
(カウンターでは包丁の使い方も変わってくる)
ロブション氏と同様、日本人でも一流の料亭で働いていた料理人が、自分で店を持つときにはカウンター形式を取り入れる例がある。「吉兆」で料理長までしていた穴見秀生さんは、大阪で「本湖月」というカウンター中心の割烹料理屋を開いた。穴見さんは言う。
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大きなキッチンで働いているときは、要するに最後の仕上がりが綺麗であるかどうかが勝負でした。多少切り身の切り方がおかしくても、仕上がりがよければ良かったのです。
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お客さんの目の前にある料理カウンターでは、また板も常に綺麗にしています。水を打って。しかし調理場では、そんなことまでは必要なかった。鯛の頭を落とすにしても、料理カウンターでは、お客さんに何か飛ぶようなことがあってはいけないと、包丁の使い方が調理場とは違ってきます。
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このように、調理のプロセスがすべて客の目の前で行われること、そして客が食べるときに満足しているかどうかを、調理人が目の当たりに出来ること。要はそれだけカウンターは、キッチンに比べて真剣勝負なのだ。料理人道を歩む職人であれば、カウンターに挑戦したくなるのも当然であろう。
(「僕はまだここで働き始めて半年」)
本稿では、料理人道の最先端を行く達人たちの話が中心となったが、わが国の「道」とは初心者にも容易に入っていける広い入り口を持っている。
大阪のホルモン屋でアルバイトをしている20代の青年は次のように書いている。
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僕がアルバイトしているホルモン屋はとにかく熱い!情熱を持ってお客様へ最高のおもてなしを心がけています。
僕はまだここで働き始めて半年。仕事の流れも徐々に把握できて今はいかにお客様にどう接するかを考えながら働いています。
先日男女2人組のお客様が来店されました。店内をキョロキョロしているところを見ると初めてのご来店だなと思い、「はじめてのご来店ですか?」とお尋ねすると「噂には聞いていますが来るのは初めてで」というようにワクワクされていました。
お席に通した後もそのお2人が楽しく美味しく召し上がっておられるか気になって気になって、時より声をかけると「おいしいです!」と超笑顔で言って下さいました。
それならお返しに「おいしいいただきましたーーーー!!!!」と僕が言い、「ありがとうございます!」とスタッフ全員で店内に響き渡る声で言うと、すごく喜んでくださいました!
最後に帰り際、「本当にありがとう!楽しかったし、美味しかったです。料理は味だけじゃないね。その店の雰囲気も重要だよ!」と言って下さいました。そんなお言葉をもらったのは初めてだったのですごく嬉しかったです!
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料理人道はわが国社会のあちこちに入り口を開けて、待っている。その道に入るのは簡単である。自分でいかにお客様におもてなしをするかを考えていけば良い。ひとたび、その世界に入れば、その中には豊穣(ほうじょう)な世界が広がっているのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
(職人を育て、認める仕組み)
ロブション氏自身が歩んできた職人の道を、朝日新聞はこう紹介している。
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フランス中西部、ポワティエ市の小さな食料品店に生まれた。貧しいが、信仰心の厚い親の影響で、神父になりたいと思い、12歳で神学校に入った。厳しい修道院生活では、料理をする修道女を手伝う時だけ、心が休まった。15歳の時、経済的事情で神学校をやめると、迷わずパリの大ホテルで料理人見習いになった。
レストランを渡り歩き、28歳でパリの大ホテルの総料理長に就いた。31歳で「フランス最優秀職人賞」を受賞。36歳で自ら開いた「ジャマン」は3年後、レストランガイド「ミシェラン」の三つ星に輝いた。
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料理一筋の職人の世界で、人を育て、認める仕組みがある事が、フランス料理界の強味なのだろう。しかし、料理人を厳しく鍛える伝統においては、わが国も負けてはいない。
一人前の「板前」、すなわちカウンターの向こうで料理する職人になるには、次の仕事をそれぞれ数年かけてマスターしていかねばならない。
「洗い場、追い回し」(料理の仕込みと鍋洗い)
「盛り付け」(料理を盛り付ける役割)
「焼き場」(炭火で魚を焼く。ここからが料理人)
「向こう板、花板、回し」(仲居がとってきた注文を調理場にとりつぐ)
「煮方」(蒸し物、揚げ物などすべてやる。これを卒業したら、店を持って良い。)
こうした長年の厳しい修行を積んできた料理人が、人間的にも深みを持つのは当然だろう。
ちなみにミシェランガイドでは星付きの店が、パリの74軒に対して東京は2倍以上の150軒。料理人道の厳しさと、その結果としての実力、地位の高さはパリの上を行くのではないか。
(トップスター料理人が始めた料理カウンター)
料理人の地位は、昔はさらに高かったらしい。日本で料理カウンターを広めた料理人は塩見安三である。明治28(1895)年に生まれ、昭和46(1971)年まで生きた。当時の一流の料理人は二人一組で全国の有名な店を渡り歩いて、仕事をしていたらしい。
塩見安三の孫で、その流れを汲む「銀座浜作」を経営している塩見彰英さんは、こう書いている。
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うちの安三おじいさんと(相棒の)出井豊三郎さんは広島の料亭へ出かけて行った時など、トップスター並みの人気ぶりで、それこそ街をあげての大評判。店には客が殺到して大変だったといいます。
給料は百円とれれば一人前の板前と言われた大正当時、安三おじいさんは500円もらっていたと聞きました。
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大正半ばの国立大学教授の月給は70円というから、今の感覚で教授が月給70万円としたら、一人前の板前が100万円、塩見安三は500万円という所か。まさにトップスターである。
この塩見が大正13(1924)年にカウンター形式の店「浜作」を大阪で始めた。客の目の前で、当時のトップスター料理人が腕を振るうのを見られる、という事もあって、たちまち大評判となったようだ。値段も当時の一流お座敷料理屋を時には上回ったという。しかし塩見自身は無愛想だったというのだから、面白い。
後に「浜作」は東京に進出し、白洲次郎や谷崎潤一郎、菊池寛、岩波茂雄など、文化人、財界人に贔屓(ひいき)にされた。来日したチャップリンやマリリン・モンローまで来たという。
客が料理人の腕を振るう様を喜んで見たり、料理人と話を楽しめるというのは、客の方にそれだけ職人に対する敬意がなければ成り立たない話である。カウンター形式が日本において広まったのは、厳しい料理人道と、そこから生まれる料理人への敬意が社会にあったからであろう。
(カウンターでは包丁の使い方も変わってくる)
ロブション氏と同様、日本人でも一流の料亭で働いていた料理人が、自分で店を持つときにはカウンター形式を取り入れる例がある。「吉兆」で料理長までしていた穴見秀生さんは、大阪で「本湖月」というカウンター中心の割烹料理屋を開いた。穴見さんは言う。
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大きなキッチンで働いているときは、要するに最後の仕上がりが綺麗であるかどうかが勝負でした。多少切り身の切り方がおかしくても、仕上がりがよければ良かったのです。
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お客さんの目の前にある料理カウンターでは、また板も常に綺麗にしています。水を打って。しかし調理場では、そんなことまでは必要なかった。鯛の頭を落とすにしても、料理カウンターでは、お客さんに何か飛ぶようなことがあってはいけないと、包丁の使い方が調理場とは違ってきます。
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このように、調理のプロセスがすべて客の目の前で行われること、そして客が食べるときに満足しているかどうかを、調理人が目の当たりに出来ること。要はそれだけカウンターは、キッチンに比べて真剣勝負なのだ。料理人道を歩む職人であれば、カウンターに挑戦したくなるのも当然であろう。
(「僕はまだここで働き始めて半年」)
本稿では、料理人道の最先端を行く達人たちの話が中心となったが、わが国の「道」とは初心者にも容易に入っていける広い入り口を持っている。
大阪のホルモン屋でアルバイトをしている20代の青年は次のように書いている。
__________
僕がアルバイトしているホルモン屋はとにかく熱い!情熱を持ってお客様へ最高のおもてなしを心がけています。
僕はまだここで働き始めて半年。仕事の流れも徐々に把握できて今はいかにお客様にどう接するかを考えながら働いています。
先日男女2人組のお客様が来店されました。店内をキョロキョロしているところを見ると初めてのご来店だなと思い、「はじめてのご来店ですか?」とお尋ねすると「噂には聞いていますが来るのは初めてで」というようにワクワクされていました。
お席に通した後もそのお2人が楽しく美味しく召し上がっておられるか気になって気になって、時より声をかけると「おいしいです!」と超笑顔で言って下さいました。
それならお返しに「おいしいいただきましたーーーー!!!!」と僕が言い、「ありがとうございます!」とスタッフ全員で店内に響き渡る声で言うと、すごく喜んでくださいました!
最後に帰り際、「本当にありがとう!楽しかったし、美味しかったです。料理は味だけじゃないね。その店の雰囲気も重要だよ!」と言って下さいました。そんなお言葉をもらったのは初めてだったのですごく嬉しかったです!
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料理人道はわが国社会のあちこちに入り口を開けて、待っている。その道に入るのは簡単である。自分でいかにお客様におもてなしをするかを考えていけば良い。ひとたび、その世界に入れば、その中には豊穣(ほうじょう)な世界が広がっているのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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