(宗教の縁に触れた場合は、五十歳を過ぎても変わる余地がある)
「五十歳を過ぎたら固まってしまって、もうどうにもならない」と言ってしまえば身も蓋(ふた)もないことで、もっと言うと、それは棺桶(かんおけ)の蓋を閉めるまでは分からないというのが正直なところです。
一般的には、五十歳ぐらいになりますと、人間としての可能性がだいたいは固まるということはあるけれども、宗教に触れた場合だけは、少しまだまだ余地はあります。
この世的には、五十歳を過ぎたら、もうそんなに変わらないでしょう。ただ、宗教というところでまだ修行をされていない方については、まだまだ変わる余地がありますし、「来世の準備」という観点を考えたときには、まさしくこれからが「入学」のようなところで、小学校のようなものです。まだまだ勉強の余地はずいぶんあります。
ですから、宗教の縁(えん)に触れた場合には、多少、例外がありますが、「一般的には五十歳を過ぎますと、もう固まってきます。そのまま持ち越していきます。持ち越さないためには、来世に行って*スクリーンで見る自分の点検を、早めに今から予習として始めていくことですよ」ということです。
早めに始めれば、すべて何事も先に行きます。早め早めにやれば用意周到に行きますから、「何十年か後に死んだときに見せられる未来を、今、もう先に見ておいてください。そして、自分で償(つぐな)えるところは償っていってください」ということです。
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*スクリーン:人間は死後、先に亡くなった縁ある霊人が観ているなか、映画のスクリーンのようなもので上映される自分の生涯を見つつ生前の清算をし、自分の行くべき世界(天国・地獄)を決めるとされる。昔は、生前の思いと行いを映し出す鏡(照魔の鏡)の場合が多かった。
---owari---
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