(人間が集団になると、「ルール」と「善悪」ができてくる)
結局、本能のままに「快・不快」を考え、「喜怒哀楽(きどあいらく)」を感じて、自分の人生を生きたがるのが人間の始まりの姿であって、それは動物や昆虫(こんちゅう)とも同じではあります。
しかし、その次には、「人間というのは、共同生活をするものである。組織のなかで生きるものである」というところがあります。人間は、離(はな)れ小島で一人だけで生活するロビンソン・クルーソーのような生活は、なかなかできないのです。そのため、「一定のルール」ができてくるわけです。
例えば、その教室で、その科目で、やってよいことと悪いことがあります。あるいは、「親しき仲にも礼儀あり」で、男子生徒が女子生徒にしてはいけないこと、女子生徒が男子生徒にしてはいけないこともあるでしょう。スポーツにもルールがありますし、勉強のほうにも一定のルールがあって、教科書に書いてあるルールに則(のっと)ってやらなければいけません。
こういうことを、いろいろと学んでいくわけです。集団生活や組織のなかでは、自分の「快・不快の原則」だけで生きていくことはできないということを学ぶようになります。「ほかの人は、どうなのだろうか」「ほかの人に迷惑(めいわく)がかかるのか」「これについて、ほかの人も同じようによいと思うのか」といったことを学び、ルールに則るということです。
(「多数決」と「善悪」の兼ね合いをどう考えるべきか)
また、善悪の問題というのも出てきます。「多数なら善だ」とは、必ずしも言えないものもあるわけです。
例えば、算数の勉強などをやっていると、「面白くない」と思う子もたくさんいるでしょう。そのため、みんなに多数決を採(と)ったら、「校庭へ出て、遊ぼう」というほうが多数になるかもしれません。
ただ、それが「多数決だから善」かといえば、必ずしもそうとは言えないのです。
学校という特殊な空間においては、「定められた科目について、一定の実力になるまで教えなければいけない」という目標があります。
先生は、その学年の目標まではいちおう教えなければいけないので、「君たちはみんな遊びたいだろうけれども、幼稚園と同じではないんだ。幼稚園では、お遊戯をしていて、勉強はしないかもしれないけれど、小学校以降は、そうではないんですよ」というようなことになってくるわけです。
もともとの「本能」から「喜怒哀楽」のあたりは、昆虫や動物とも相通じるものもあるのですが、人間の場合、共同生活をしていく上で、ルールができてきたり、善悪の問題が出てきたりするのです。
---owari---
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