(「神からこの世を託されている」という人間の立場)
民主主義においては、みんなで神の心を慮(おもんばか)り、良心と良識で考えて道を決めていくことが大事です。「神様ならこう考えるだろう」という気持ちに合わせて、結論を出していくことが大事なのです。
それはどういうことかというと、「神様が政治を始められた思いは、いったいどこにあったのか」ということを考えればよいのです。
神が人々に対して、「あなたがたが、この世において『仏国土ユートピア』、あるいは『神の国』をつくりなさい。この世を“実験場”として与えるから、天国にあるような世界をこの世でつくってみなさい。その意味での“権限(けんげん)”を与えるから、やってみなさい」と託(たく)されていることを忘れてはいけないと思います。
つまり、初期のころにおいては、神が地上に出て、直接統治(とうち)したり、指導力を発揮(はっき)したりするけれども、その後、長い間、人間に任せながら、また革命のとき、時代が変わるときに、神の側近き方々が降りてきて、世の中を変えているわけです。
明治維新や戦国時代にも、神近き人たちは出ていたかもしれませんし、律令国家ができる前もそうだったかもしれません。いろいろな時代があるけれども、神近き人たちは、そういう国の変革期や国難のときには出てくるのです。ただ、それ以外のときには、普通の人々に任せて、この世を運営させていくわけです。これが、政治の根源的な部分であると思うのです。
したがって、「人間の合意によってできた法律が万能で、それがすべてを支配する」という考えは、根本的な間違いです。
例えば、「物理学者が法則をつくると、それに合わせて宇宙の法則がねじ曲がる」と思っているなら、大間違いであるわけです。
要するに、人間の頭で考えたことによって、根本的なものが変わりはしないのです。
(民主主義の目的は「神の理想の実現」である)
神が人々に地上を委(ゆだ)ねたのは、「多くの人々が幸福に生きていけるような素晴らしい社会をつくりなさい」と願ったからです。
もちろん、それぞれの国があり、それぞれの国を護っておられる方がいると思いますが、「お互いに悪なる指導者が立っているときには、他国を侵略(しんりゃく)しないようにしましょう」という合意を取らなければならないでしょう。
今、中国や北朝鮮、そして韓国にも一部、問題があります。こういう国が日本の歴史認識に対して、「反省せよ」と言っていますが、その次には、「反省したなら、国を明け渡せ」と言ってくるので、認めるわけにはいかないのです。
やはり、日本は神々が統(す)べられた国であるので、その子孫である現在の日本人は、それを護らなければいけません。日本を明け渡すわけにはいかないのです。中国の歴史家が論文を書いて、「沖縄(琉球)は中国のものだ」と言っても、断じて渡してはならないのです。それは許せないことですし、バカバカしい話です。
「神がいない」と思っている人は、日本に対して、書き放題で言い放題だと思いますが、「国内法が国際法として海外にも通じる」と思っているなら、大変な間違いです。「中国が『ここまでが領土だ』と決めたら、中国のものになる」などということは通らないのです。
このあたりについては、きっちりしておきたいのです。「日本には神がいることを、お忘れなのではないでしょうか」と言っておきたいと思います。
この章では、「政治の根源にあるもの」について話をしましたが、それは「民主主義そのものが目的ではない」ということを知らなくてはなりません。
民主主義政治を通じてなそうとしていることは、「神の理想の実現」であり、「ユートピアの実現」であり、「最大多数の人々の幸福の実現」であるのです。
これを忘れて、「いかに貧しくても、悪くても、結果平等である」「この世しかない」というような世界観を持つことが目的であるなら、その民主主義は、間違った民主主義であるのです。
また、そうした法律をつくるのなら、それは間違った法律でありますし、「神の掟(おきて)」を破るような法律をつくったときには反作用がでます。その点を申し上げておきたいと思います。
---owari---
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