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指導者の条件④――「義(ぎ)」

2018年11月15日 | 人生

一番目に「礼」、二番目に「智」、三番目に「信」と言いました。四番目に大事なことは「義」です。「義」とは、正義の義です。義には、二つの面があります。

 

一つは、他の人びとから恩義を受け、何かを与えられたとき、そこに感謝の心が生まれ、報恩をしていくという意味での義があります。受けた恩を忘れずに報恩していくという意味での義です。しかし、これは指導者の条件としての義ではありません。そうではなく、指導者に従っていく人たちの義です。

 

では、指導者になるべき人の義とは何でしょうか。それは、ものごとの是非を分かつ力です。是非を知る力、善悪を分ける力、これが義なのです。善と悪とを分ける、それが正しいことであるか正しくないことであるかを見分ける、という力なのです。

 

この義とは、言葉を換えていうならば、「理性」と言ってもよいでしょう。道理を見きわめる力です。もっとわかりやすい言葉を使うとするならば、これは「判断力」という言葉で呼んでもよいでしょう。善悪、是非を分ける判断力というものは、指導者にとって、少なくとも王道に入る指導者にとって、どうしても、ないがしろにできない徳目なのです。

 

もちろん、覇道のなかに生きる人のうちには、こうした善悪の峻別(しゅんべつ)はなく、自分に有利か不利かに対する峻別力が高い人もいるでしょう。しかし、自分の利得、利害に聡いというような判断力は、いま私が言っているような義ではありません。義とは、あくまでも正邪を分ける力なのです。

 

「それが智とどう違うのか」と問う方もいるでしょう。「智というものも、ものごとを知る力ではないか。ならば、智があれば義は要らないではないか」と言う方も、なかにはいるでしょう。

 

しかし、私たちの経験則からいっても「ものごとをよく知っている。勉強もよくできる。知識はたくさん持っている。しかし、判断ができない」という人が数多いことがわかるでしょう。数多くの情報はある。知識もある。勉強はしている。教育もある。しかし、肝心なところで、ものごとの判断ができない。優柔不断で、何が善で何が悪か、何はしてはよいことで、何はしてはいけないことか、それが判らない人が多いのです。

 

いや、むしろ知を深めていけばいくほど、いろいろなことを知れば知るほど、複雑になっていって、選別する力、識別する力が弱まる面も、なきにしもあらずです。あまりにも多くのことを知りすぎ、考えすぎるがために、何を選んだらよいのか、どれが正しいことであるかが判らなくなる。こういうことがあります。

 

ここで、「正しさ」というものを使わねばなりません。それは、仏から来ているところの正しさです。「仏が希(こいねが)うのは、かくなる判断であるべきだ」という確たる考えを持っている人です。こういう考えを持っている人は、一時期、利害において、前進とは正反対の、自分の後退にあたるような現象に見舞われることもあります。

 

人生の途中においては、是非の心、善悪を分ける心が強すぎるがために、一時期、後退していくように見える、挫折するように見えることもありますが、やはり、究極において多くの人びとの信望を集めるのは、この義の心なのです。

 

善をとっていく人のところに、最終的に人は集まってくるのです。指導者は、そうした多くの人びとに立てられなければいけないわけです。

 

ゆえに、義とはまことに大事な力です。いかに礼儀正しく、いかに知識、智慧に富み、いかに信望を受けている人でも、この義の力が弱い人は、“ここ一番”というところで判断がつきかね、大勢の民を迷わし、戦いにおいては大勢の見方を死なせてしまうことになりかねません。判断力、決断力というのは、どうしても必要です。

 

---owari---

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