王道に入るための条件の三番目は、「信」です。この「信」の基は、もとより仏に対する信仰にありますが、ここで指導者の条件として取りあげたい信とは、仏への尊崇のみではありません。信には、あと二つの面があります。
一つは、多くの同胞たち、仲間たち、他の人びとを信ずるという意味での信があります。この信は、チームワークをつくり出し、数々の共同的な作業、組織的な仕事をしていくときに、どうしても欠くべからざるものでしょう。
しかし、仏への信、それから他の同胞、人間への信とは別に、指導者としていちばん大切な信とは、「信じられる」という意味での信です。多くの人たちから、「この人は信じられる」と思ってもらえる、という意味での信なのです。
この意味における信というものを考えている方が、みなさんのなかに、いったい幾人いるでしょう。あなたは、他の人びとから信じられる人ですか。あなたは、上司から、同僚から、身内から、部下から、信頼できる人だと言われていますか。この人は信じるに足りうるという思いは、その人に賭けてみたいという気持ちを起こさせるものなのです。
すでに亡くなった元総理大臣で、「信なくば立たず」と言った方がいます。そのとおりです。政治家であっても、国民の信頼がなければ、たとえどのような経歴の方であっても、才能がある方であっても、宰相は勤まりません。
信が揺らいだとき、リーダーシップはその姿を消していきます。それは、最近でもよく見かけられることでしょう。国民の信頼を失った政治家が失脚していく姿を、みなさんは見てきたはずです。
信なくば立たず――信じられるということが、どれほど大きなことであるか。信じられるということ、この信頼感があるからこそ、多くの人びとから国家の運命を委ねられるのです。任されるのです。そうであってこそ、国民の代表として、国民の「生殺与奪(せいさつよだつ)の権」を握ることができるのです。
信がない人、人から信じられないような人が、それを持ったとき、そこにたちまち現れてくるものは、“恐怖政治”です。人びとに真実のことを教えないで、自分たちの都合のよいことばかりをやろうとする政治が、そこに出てきます。
そして、言うことをきかない者は次々に処刑していく――このようなことが起きてきます。この信ということ、他の人から、「あなたは信ずるに足りる」と言われるということが、指導者の条件にとってどれほど大きなことであるかを知っていただきたいのです。
さすれば、振り返ってみて、自分自身はどうでしょう。どれだけの人から信じられているでしょうか。「あなたを全面的に信じている」「あなたが言うことなら信じましょう」「あなたがされることなら、それは正しいことでしょう」と言ってくれる方を、あなたは何人持っているでしょうか。
この信を築くためには、その基礎に数多くの要素が要ります。先ほど、その出発点にある「仏への信仰」ということを述べましたけれども、やはり、一つには、仏に近き者たちが仏より委ねられている属性に近いものがあげられると思います。
仏に近き者が仏より委ねられている属性に近いものとは何でしょうか。一つは公平無私の精神でしょう。公平にして無私――己を利すること少なく、そして、他の人に対しては公平に処していくことです。
また、隠しだてをしない公明正大な生き方でもありましょう。いや、それだけではなく、現に数多くの人びとを幸福にしてきたという実績こそ、何ものにも勝る雄弁な論拠となりましょう。
この世に生を享けて生き、多くの人びとの信を受けるということは、大変なことです。それを考えたときに、「ああ、自分には、なんと足りないことが多いのだろう」と思う方が、ずいぶんいることでしょう。
---owari---
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