(勝ち負けの物差しは一つではない)
もう一つ言えることは、「『その優勝劣敗、勝ち負けが、本当の勝ち負けかどうか』という面も見なければいけない」ということです。
何か一点について言えば、勝ち負けはあります。一つの物差しで言えば、勝ち負けはあるのです。「同期で百人が入社したなかで、何年目で課長になるか。何年目で部長になるか。何年目で役員になるか」ということだけで言えば、確かに勝ち負けはあります。ただ、それぞれの人の家庭状況など、昇進の早さ以外のいろいろなものを照らし合わせてみると、違うものがあるのです。
「同期のなかでいちばん早く昇進しなければいけない」と思っている人にとっては、そうならないのは苦しみかもしれません。しかし、普通ならば、その会社には採用してもらえないような経歴だったのに、運よく入れてもらい、「一生、平社員でも、しかたがないな」と思っていた人にとっては、「同期の平均ぐらいで出世した」ということでも、けっこうな成功です。
そのように、それぞれの人にとって微妙に違いがあるのです。
人は、傍目にはよいように見えたとしても、他の人から見えていない部分は、どうしても残るのです。
一本の物差し、一種類の物差し、一つの目盛りで見たならば、勝敗は確かにあります。しかし、現実には、物差しは何本もあって、その何本もの物差しを組み合わせたかたちで総合的に見て、ある人が幸福かどうかということは、そう簡単に分かるものではないのです。
「本人が『自分は幸福だ』と言えば、やはり幸福でしょう」というのが正解です。他の人からは、そう見えなくても、それで本人が、「自分は幸福だ」と言えるのであれば、それは、ほんとうに正しいことなのでしょう。
要求レベルが高くて、「最高度に尊敬されなければ幸福ではない」と考える人にとっては、世の中は不幸の種に満ち満ちています。気の毒なぐらいです。
秀才なら尊敬されるからよいかと思えば、そうではなく、秀才になればなるほど、劣等感は強いのです。自分の些細なミスや失敗が許せず、自分より優秀な人が一人や二人いただけでも大いに苦しむのです。
「ビリでなければ幸福だ」と思っている人もいれば、「自分より優秀な人が一人でも二人でもいたら苦しい」と思う人もいるわけです。
したがって、「人の幸・不幸を見るときに、どのように物差しを当てて見ていくか」ということは、極めて難しいことなのです。
---owari---
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