私は常づねあなたがたに教えていたはずである。
人は自分の幸福だけを追求してよいものではないと、
自ら一人だけが幸福であればよいものではないと、
常づね、私はあなたがたに教えていたはずだ。
中道の道に入りて、自らが幸福となりし時、
その幸福は、自ら一人のものではないということを知りなさい。
自らが中道の道にて得たその幸福は、
まわりの多くの人びとに返してゆかねばならない。
まわりの人びとをも救う力でなくてはならない。
私は、そう思うのだ。
何ゆえに中道の道があるのか、あなたがたはほんとうに考えたことがあるか。
たとえば、中道から外れて、
そして、あなたが苦難のいばらの道を歩む時に、
人びとは、あなたをどう救わねばならないかということで、
心が躍起になっているであろう。
あなたがたをどう救おうかと、そのことばかりで夢中であろう。
多くの人びとに悩みを与え、苦しみを与えるということは、
あなたは今、マイナスの人生を生きているということだ。
ゆえに、あなたはいち早くいばらの道を出て、中道に帰らねばならない。
また、得意の時に謙虚であれ、感謝を忘れるな、と私は説いた。
そのことの意味が、あなたがたにはわかるだろうか。
謙虚さということは、何を意味しているか。
それは、他の多くの人びとの力を受けているということを、
また仏の力を受けているということを、
自らに言いきかすことを意味している。
自らに言いきかせ、
自らの慢心を防ぐということもって旨としている。
また、感謝とは何であるか。
謙虚さから生まれた行為だ。
謙虚であるからこそ、感謝が生まれる。
感謝が生まれて、
その謙虚さが他の人への行為となって現れてくるのだ。
これが実に大切なことであるのだ。
成功者たちが、成功者として存在が許される理由は、
他の多くの人びとへの愛の実践が、そこにあるからなのだ。
そう、自らの田畑に、数多くの実りをつくった者は、
人びとから妬まれたり、
あるいは謗られたりすることが多いであろうが、
自らの田畑に数多くの収穫を得ても、
他の人びとから喜ばれる道はある。
それは、自らが取り入れた、
自らが刈り入れた数多くの果物、数多くの稲の穂を、数多くの麦を、
まわりの人びとに配って歩くことだ。
さすれば、あなたは存在の愛となる。
さすれば、あなたは存在そのものが善となる。存在の善となる。
その通り、ここにこそ成功の要諦はある。
成功したものを、自らのみのために使おうとする時、
そこに大きな間違いがある。
しかし、成功の成果を、他の多くの人たちのために生かそうとする時、
それは、世の中を潤し、
そして、多くの人びとの魂を喜ばすこととなるのだ。
(仏法真理)
---owari---
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