『易経』の大象伝に
君子は恐懼して修省す
とある。
立派な人間は恐懼する。恐れる。畏れる。かしこまる。
天皇が代々「薄氷を踏むように」生きてこられた。
天皇制を維持するため、民草の上に立つため、国民の信頼を得るため、一挙手一投足、命を削り、気持ちを込めて、心を尽くして行ってこられた。
それが君子は恐懼する、ってことだろうし、天皇が「薄氷を履む」ってことだろう。
こちら ↓
↑ 天子は薄氷を履む、って漢籍のエピソード。
天子は戦々恐々としている。恐々は、「兢々」と昔は書いた。
天子はビクビクしている。いい意味で。
いつ何時、ゆえない、心ない、悪意の批判に晒されるか、わからない。
そんな「いざ」というときのために、常に気を張り詰めて、準備している。
つまり、
「いざ」というときが「いま」であり、
「いま」が「いざ」というときである。
そんな気構えでいる。それが「薄氷を履む」ということ。それが「恐懼する」ということ。
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皆が見ている。天(神、造物主)も見ている。
鼻くそもほじれない。唾も吐けない。仏頂面もできない。常に微笑みをたたえる。
内心は、むかつくこともあるだろう。気に入らないこともあるだろう。不本意なこともあるだろう。
そんな悪感情を全て押し殺して、または昇華させて、人の範たる振る舞いをする。
一瞥として、人目として、切り取られた場合に、「嫌な目つきだ」と思われるような表情をすることもできない。
パパラッチに悪意で切り取られても、それでも批判されないような姿勢と表情をする。
笑い方一つをとっても、「ウッヒャッヒャ」みたいな下品な笑いはできない。
生活のどのシーンをとっても、どの一瞬を切り取っても、批判に耐えうるような振る舞いをする。
四六時中、365日、「批判に堪える」言動をする。
息が詰まる。
私のような凡夫には息が詰まる。
こういう「息が詰まる」生活をされているのが、皇族の方。
天皇制を維持するため、もう生まれた時から、死ぬ瞬間まで。
これが皇族であり、天皇家。
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ちなみに、中国の皇帝とはだいぶ異なる。イメージが。中国皇帝って、毛沢東までそうでしたが、酒池肉林で豪快に君臨して天下を睥睨して、、ってイメージがある。
↑ の本には、毛沢東が短小のイチモツを洗いもしなかった不潔な男だ、ということまで書かれている。
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この「薄氷を履む」「恐懼する」「戦々恐々とする」のは、何も天子・国家元首に限られない。
社長もそうだし、総理大臣もそうだし、部長や課長、人の上に立つものは皆持つべき規範でもある。
ま、課長レベルで、そこまで自分を高めようとしている方はいらっしゃらないかもですが、、
真摯な生活を送る、というのはこういうことだと思っている。