元幸福の科学の会員で1987年より三十数年間、在籍し、活動をしてきました。その間を振りかえります。

最初は勉強会だったのに大川隆法氏は1991年に突然に自分は地球神・エルカンターレだと宣言し、宗教法人となった。

元慰安婦側が敗訴 米連邦地裁、産経新聞などの主張認める

2016-06-23 05:10:58 | 日記

 韓国の元慰安婦の女性2人が日本政府や産経新聞社などの日本企業に原告1人当たり2000万ドル(約21億円)の損害賠償を求めて米サンフランシスコの連邦地裁に起こした訴訟で、同連邦地裁は21日(現地時間)、全21被告に対する原告の請求をすべて退ける判決を下した。これで第1審は終結した。

 被告のうち産経新聞社については昨年11月にいったん原告の訴えを却下するとの決定がなされたが、その後、原告が証拠開示手続きを求めたため、審理が続いていた。(ロサンゼルス支局)


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重度の障害を持つ息子と過ごした20年。天国で、もう一度、会えるその日まで・・・・・・

2016-06-22 17:43:46 | 日記

http://voicee.jp/201310196983 

太志が居た場所

豊かな自然が広がる埼玉県某市の閑静な住宅街に、我が家はあります。
そのリビングルームのテレビの前が、太志の“定位置”でした。
そこに布団を敷いて、重度の障害で寝たきりだった太志は、いつも横になっていました。

食事を摂るのも、オムツを換えるのも、眠るのも、いつもその場所。
夕食をすませた家族は、自然と太志の布団の周りに集まって、テレビを見ていました。

夏には自然のさわやかな風が吹き抜け、冬には、暖かいこたつとストーブの火。
我が家のリビングには、いつも太志を中心に、家族の笑い声と笑顔がありました。
けれど、今はもう、そこに太志の布団はありません。
5年前のお正月、太志は天国へと召されていったからです。

心臓手術

太志が生まれたのは1988年1月22日。
よく晴れた寒い朝でした。


結婚4年目でようやく授かった我が子に、私たち夫婦はとても喜びました。
しかし、その喜びもつかの間。


3カ月検診で“心雑音”が認められ、病院で検査を受けた結果、心臓内部の壁に先天的に穴が開いている「心房心室中隔欠損(しんぼうしんしつちゅうかくけっそん)」と診断されたのです。


すぐに入院するように言われ、荷物を取りに家に戻った主人と私は、二人で大声をあげて泣いてしまいました。

その年の6月、太志は心臓の手術をするために、他の病院へ転院しました。
手術は、8時間にもおよぶ大手術となりました。


そして、24時間後に麻酔から醒めた太志は、心停止を起こしてしまったのです。
医師や看護師たちが、あわただしく動き始めました。
電気ショック、心臓マッサージ……。


奇跡的に心臓の鼓動は戻り、太志は何とかその幼い生命をつなぎとめることができたのです。


神様、どうか……

しかし、退院後も太志は、ミルクを詰まらせて肺炎を起こすなどして入退院を繰り返し、クリスマスもお正月も、1歳の誕生日も、病院で過ごしました。


それでも、だんだん食事も摂れるようになり、4月には退院。
6月には、長女が生まれました。
その3週間後


太志の呼吸状態が悪くなり、すぐに救急車を呼びました。


病院に着くと、太志はまたも心停止を起こし、意識を失ってしまったのです。


主人と私は、本当は家族も入室できない集中治療室に入れてほしいと頼み込み、医師たちが懸命に心臓マッサージを施すかたわらで、必死に祈りました。

「私の命をこの子にあげてもいい。だから神様、どうか、この子の命をお助けください!」

主人はそう祈った、と話してくれました。


講演会での質問

心臓は動き始めましたが、昏睡状態は続き、太志は病院の集中治療室で眠り続けました。


ちょうどそのころ、幸福の科学の大川隆法総裁の講演会が埼玉県・大宮市で開催されました。


私は、すでに幸福の科学の会員となっていた主人に誘われて、初めて大川総裁の講演会に参加することにしたのです。


「どうして何の罪もない幼い太志が、こんな試練に遭わなければならないのだろうか……。主人が信じている大川総裁なら、その答えを教えてくださるかもしれない」

そんな期待がありました。


そして、講演会の質疑応答で、主人はたくさんのなかから当てていただき、なんと、直接、大川総裁に質問することができたのです。

「先天的に障害がある子供を持った場合の、親としての心構えをお教えください」

大川総裁のお答えは、力強いものでした。

「親としても重荷を負うことは事実でしょう。

けれども、人は皆、あの世で人生の計画を立てて生まれてきます。

そして、その人に背負えない重荷は計画してきません。

また、障害を抱えての人生は、通常の人生の数百年・数千年分にも匹敵するほど尊い魂修行になります。

今世、大きなハンディを持って生きた人ほど、来世で大きく伸びていきます。

それだけ魂が輝くのです。どうか、愚痴の人生、他人の同情を受けるだけの人生で終わらせることなく、ハンディに負けずに、明るく建設的な生き方ができるよう励ましてあげてください」

私は、愛と確信に満ちた大川総裁のお言葉に圧倒されました。
ただ、大川総裁のお答えの本当の意味を理解するまでには、まだ、しばらくの時間が必要だったのです。


やっと目が開いたけれど……

病院で、約10日間にわたって眠り続けた、太志の目が開きました。
けれど、以前の太志とは別人のような目でした。


入院前の太志は、1歳半の標準よりは小さいながら、お座りもでき、手を出して「抱っこ」をせがんだり、大きな澄んだ目をキョロキョロさせて、いろんな“芸”も見せてくれていました。


「あの太ちゃんは、いったい、どこへいっちゃったの……?」

戸惑う私に、医師は言いました。

「脳に重い障害が残り、これ以上良くなることはありません。もう何も治療することはないので、一般病棟に移ります」

私には、その意味がよく分かりませんでした。


というより、このときの私には、まだ受け容れることができなかったのだと思います。


太志がもう二度と自分の足で歩くことができないこと、可愛らしい小さな手にスプーンを持って大好きないちごのケーキを食べることもできないこと、そして、もう二度と、愛くるしい笑顔で笑うこともないことを――。


ボーッとしたままバスに乗って帰宅し、長女をみてくれていた母に、医師の言葉を伝えていると、急にポロポロと涙がこぼれました。


心臓の手術をしたときには、「体が弱くても、勉強でがんばれば大丈夫よね」と、母と励まし合い、太志の将来に夢を抱いていました。

やるせない思いで、いっぱいになりました


人生は一冊の問題集

太志の入院中、私はベッドの横で、幸福の科学の書籍を10冊読み、入会願書を提出して、会員となりました。


書籍のなかの、「人生は一冊の問題集」という言葉が、私の胸に深く響きました


人間は幾度も転生輪廻を繰り返していて、毎回、違う人生を自ら計画し、自分なりの問題集を選んで生まれてくる。その問題を自分の力で解くことが魂の向上につながる――。


そのようなことが書かれていました。

「これも、私の人生の問題集? 太志も、自分で人生を計画してきたのだろうか……。だとしたら、問題から逃げずに、前向きに太志を育てていくことが、大宮の講演会で先生が言われたことの意味なのかしら……」


笑顔も消えて

約5カ月間の入院ののち、太志が退院したのは、すでに秋風が吹くころでした。
ミルクも飲めない太志の鼻には、経管(けいかん)栄養のためのチューブが挿入され、あんなによく笑っていた太志の顔からは、すっかり笑顔が消えていました。


そして、週1回のリハビリと内科の診察を受けるため、手足の動かない太志をベビーカーに乗せ、1歳にもならない長女を背中におぶって、病院通いが始まったのです。


長女はとても活発な子で、8カ月で歩き始め、「オムツ持ってきて」と言うと、太志の分まで持ってきてくれました。


微笑ましい長女の姿を見るにつけ、五体満足で健康であることがいかにありがたいことかと、あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。


通園施設での経験

そんなある日、我が家の近くに肢体不自由児を受け入れてくれる通園施設があることを知り、主人と下見に行きました。


その施設で、最初に言われたことは、「お母さん、ふつうの2歳児が体験することを、太志くんにもさせてあげていますか?」ということでした。


言われてみれば、自宅と病院との往復だけで精一杯で、太志を遊ばせることなど考える余裕すらなかったのです。


ここでは、先生方が、子供たちを抱きかかえてブランコに乗せるなど、全身にさまざまな刺激を与えてくれます。


それがとても心地良いらしく、太志の顔に、少しずつ笑顔が戻ってきたのです。
はじめは週1回だけの通園でしたが、4月には、正式に入園することになりました。


本来ならば嬉しいはずの入園式の最中、急に悲しみがこみあげてきました。

「なぜ私はここにいるの? ここは障害を持つ子の施設。幼稚園じゃない!」

けれども、この日私は、自分が「障害児の母になった」という現実に、初めて正面から向き合い、そして、受け容れることができたのだと思います。


自分に与えられた「人生の問題集」から逃げない。
そして、何があっても、自分の手で、前向きに太志を育てていく――。
そう心に誓ったのです。

通園施設に通い始めてから、何とか口から食べられるようにと、根気強くリハビリを続けました。


そのかいあって、太志が4歳になるころには、ペースト状にすれば何でも食べられるようになりました。


鼻のチューブも外すことができ、太志は、好きなものを食べると、嬉しそうに笑顔を見せるようになったのです。


太志の障害は、施設に通う子供たちのなかでも最も重度でしたが、食べるのが苦痛で泣きながら食べている子や、思うように飲み込めない子も多いなか、太志が食べることを楽しみにしてくれるようになったことは、私にとっても、大きな救いとなりました。


たとえ障害があっても

1991年から95年まで、年2回、東京ドームで、5万人が集う大川先生の講演会が開催されていました。


私は、太志に大川総裁のお話を聞かせてあげたい一心で、東京ドームでの講演会のすべてに太志を連れて参加しました。


20年前の当時は、「障害児は家に隠しておくもの」という暗黙の認識がありました。


外に出すと、多くの人から興味本位の視線が浴びせられます。


それは、耐え難いものでした。太志にとってもきっと同じだったでしょう。


けれども私は、あの埼玉の講演会で大川総裁が言われた、「障害を持っていても明るく建設的に生きる」ということに少しでもつながるようにと、可能な限り、太志を外に連れ出しました。


通園施設でも、運動会、遠足、芋掘(いもほ)り、お遊戯会、お泊り会……。
ほとんどすべての行事に参加しました。


もちろん、車椅子での参加でしたが、光や高い音には敏感に反応していた太志は、とびきりの笑顔で喜びを表現してくれたのです。


戦争のような日々

通園施設を卒園した太志は、養護学校に通い始めました。


そして、太志が養護学校の1年生(小学校1年生)のときに、2男が生まれると、太志の介護と家事・育児で、私の忙しさはさらに加速していきました。


3度の食事にも気を遣います。


太志の食事はすべてミルサーにかけて、ていねいに裏ごしし、スプーンで一さじ一さじ口に運んであげます。


少しでも粒が残っていると、のどに詰まらせたり、気管に入って肺炎を起こしてしまうので、細心の注意が必要です。


オムツ交換は、1日に、7~8回。
失敗すると、下着からズボン、寝具まで総とっかえです。


何回も洗濯機を回さねばなりません。
また、太志が眠ると、ほとんど毎晩のように、夜中に痰(たん)がからんでゼコゼコと苦しみ始めるため、私はすぐに起き出して、痰を吸引しなくてはなりません。


放っておいたら痰を詰まらせ、窒息しかねないのでこちらも必死です。
そのため、私はいつも寝不足でした。


やがて妹や弟たちも成長し、塾に通うようになると、養護学校の往復や塾の送り迎えで、車での走行距離は、計算すると1日約100キロメートルにもなっていました。


飴をなめ、歌を歌いながら眠気と戦う日々――。
毎日が必死でした。
落ち込んでいる暇さえありません。


「一番大変なのは太ちゃんなんだから……」

不自由な体に宿りながら、懸命に生きる太志。


そんな太志を思えばこそ、重度障害児は施設に預ける人も多いなか、私は「太志を自宅で育てる」という信念を貫き通したのです。


ともに励まし合う仲間たち

「太ちゃんは、天使と話しているんだね。きっと、あの世とこの世を自由に行き来できるんだね」

時々、天井のほうを向いてニコニコ笑っている太志を見て、主人が言いました。


幸福の科学では、「脳に障害があって、感じたことや思ったことを体で表現できなくても、魂は健全で、考える力や感じる力、意志を持っている」と説かれています。


きっと太志も、私たちが見えないものを見、感じられないものを感じていたにちがいありません。


また、「体が不自由なのは、この世での数十年の間だけ。あの世に還ったら、どんな障害も元に戻る」という教えには、本当に心癒されました。


通園施設や養護学校で知り合ったお母さん方とは、定期的に会い、励まし合っていました。

「○○ちゃんが入院した」「○○ちゃんが亡くなった」――。

悲しい知らせが舞い込むたびに、障害を持つ子たちは、本当に毎日が死と隣り合わせなのだと思い知らされます。


まだ子供たちが小さいころから、ずっと苦楽をともにしてきたお母さんたち。


障害も、私たちの『人生の問題集』なのよ。解けない問題は来ないんだって。だから自分のことも、子供のことも、“かわいそう”って、思わないで、がんばっていこうね」

折にふれ、私は信仰によってつかんだ光を、お母さん方にお話ししました。


天使の笑顔

中学・高校と、新設の養護学校に通った太志は、卒業後、昼間の数時間だけ、自宅近くの施設で過ごすことになりました。


体が大きくなると、抱えるのも一苦労。
太志が大好きなお風呂も、私一人では無理なので、男性のヘルパーさんに入浴のサポートをお願いしました。


18歳のころ、太志は東松山市の福祉を紹介するテレビ番組で、障害者のモデルに“抜擢”されました。


ヘルパーさんが太志を入浴させるシーンを、自宅で撮影したときのこと。
太志は終始、笑顔でカメラに収まり、撮影もスムーズに終了。


スタッフの方々を玄関まで見送り、ふと、リビングの太志を見ると――。
ぐったりとして、眠りこけていました。


太ちゃん、サービス精神旺盛だからカメラが回っている間中、笑顔をふりまいて疲れちゃったんだね。いつも、感謝や喜びの気持ちを笑顔で表わしてくれているんだね」

太志の天使のような笑顔は、神様からの最大のご褒美でした。


その日は突然に

やがて、太志も19歳になりました。


相変わらず、食事を詰まらせたり、痰がひっかかったりするので、気を抜くことはできません。


それでも、幼いころのように入退院を繰り返すこともなくなり、このまま、無事、成人式を迎えられると思っていました。


けれども、その日は突然やってきたのです。
2007年12月16日。
夕食後、お風呂から出た太志の息が、とても苦しそうです。

「救急車呼んで!」

病院に着くと、すぐに人工呼吸器がつけられました。

「肺気胸です。健常児なら、さほど心配はいりませんが……。こういう障害を持つお子さんにとっては、厳しい状態です。覚悟しておいてください」

そう医師に告げられ、私は、誰もいない薄暗い病院の廊下の椅子に崩れ落ち、独りで泣きながら祈りました。


静かに迎えた最期のとき

その後、麻酔で眠っていた太志の容態は安定しているように見えました。
けれども、年が明けて2008年1月2日のお昼すぎ。


太志は病室で、静かに息を引き取りました。
あと、ほんの少しで20歳でした。


もう大人の年齢ですが、身長は約140センチメートル。
長年の寝たきり生活で体は湾曲し、床ずれの跡が痛々しく残っていました。


生後半年で受けた心臓手術後の、心臓マッサージのせいで肋骨がずれてしまい、手術の傷跡まで痛々しくずれています。
20年にわたる、闘いの跡でした。

「太ちゃん、よくがんばったね……」

太志の顔は、とても安らかでした。


家に戻ってきた太志の亡骸に、私たちは成人式に着せる予定だったスーツを着せて、紫色のネクタイをしてあげました。


主人は、「あの世」に還った太志が、すぐに仏法真理(ぶっぽうしんり)を学べるようにと、大川総裁の法話CDをたくさん棺に納めました。


帰天式

太志の帰天式は、幸福の科学の支部精舎で行われ、300名を超える方々が参列してくださいました。

太志くん。あなたは、今、肉体という衣を脱ぎ捨て、魂となってあの世へと旅立ちます。19歳と11カ月の今世の命でした。障害を持つ体で、さぞ大変だったことでしょう。

でも、今、あなたは自由自在の霊となって、大空へ羽ばたいていきます。障害があっても笑顔で生き切った太志くん。皆様も、太志くんが遺してくれた宝物を大切にして、素晴らしい人生を生き切ってください」


支部長の法話は、参列していた養護学校の先生方やヘルパーのみなさん、そして、ずっと支え合ってきたお母さん方の心にも、深く深く沁みわたっていきました。


「ありがとう」と伝えたい

帰天式のあと、太志のお骨が自宅に戻ってきた夜のことです。
主人は太志といっしょに、やすむことになりました。


私は太志と長年を過ごしたリビングで眠りにつきました。
翌朝、起き出してきた主人が、静かに話し出しました。

「太志と話をしたよ」
「え……?」


「夢のなかに出てきた。あのときのスーツを着て、元気に歩いてた。『お母さんを起こしに行ったけど、お母さんは寝ていたから、お父さんのところに来たよ』って」
「太ちゃん、何て……?」


「『どうして、20年で逝っちゃったの?』ってきいたら、『20年というのは、僕の人生の計画だった』って……。

そして、『主エル・カンターレに、よくがんばったねって、頭をなでてもらったよ』って」


「………」
「『そっちの世界で自由な体になって、太志は何がしたい?』ってきいたら、『お母さんにありがとうって言いに行きたい』って……」


そこまで話して、主人は声を詰まらせました。そして、2人で涙が枯れるまで泣きました。


20年間、太志も家族も、ただただ無我夢中で生きてきました。
でも、太志は、自分自身で計画した人生を立派に全うしたのです。


たとえ障害があっても、太志は、決して「かわいそうな子」ではなかった。
多くの人に勇気を与えるために、自ら厳しい人生を選び、しっかりと、その使命を果たしたのです。

「お父さん、これでよかったんだよね? 総裁先生があの講演会で教えてくださったとおりに、私たち、がんばれたよね?」

そう問う私に、主人もうなずいてくれました。
太志、お母さんは、太志のお母さんになれて、本当に幸せでした。
太志、ありがとう。


たくさんの笑顔をありがとう。
お母さんも、力強く、自分の使命を果たしていきます。

胸を張って天国に還って、もう一度あなたに会えるその日まで――。

コメント (1)
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大川隆法「悪霊や悪魔に通じる考え方とは」他人の不幸を見て胸がスッとするというのは・・

2016-06-22 17:41:41 | 日記

「他人の不幸を見て胸がスッとするというのは、

人間として最低の心。

(中略)これがいわゆる、悪霊(あくりょう)や悪魔に通じていく。

原理は簡単なんです。


他人様の幸福を願う方向で考えているか、

不幸を願う方向で考えているか、これが人間の方向を決める」

 


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釈量子党首【2016参院選 経済政策を問う!】釈党首は比例から出馬。

2016-06-22 09:46:06 | 日記

SankeiBiz

 ■消費税を引き下げて5%に

 安倍晋三政権は「三本の矢」と称する金融緩和や財政出動、成長戦略の政策パッケージによって、デフレから脱却し、富の拡大を図ろうとしていた。

アベノミクスの考え方は、2009年の立党以来、幸福実現党が訴えてきた政策と方向性を同じくする。

 しかしながら、このシナリオを破綻させたのが、一昨年春の消費税増税にほかならない。

わが党は一貫して、「消費税増税が招くのは日本経済の沈没である」と指摘してきた。景気回復への兆しが見えたのもつかの間、5%から8%への税率引き上げが、国内総生産(GDP)の6割を占める個人消費の冷え込みをもたらし、景気失速を招いたことは明らかだ。

 税率の再引き上げを延期したところで、景気への大きな効果は見込めない。わが党が主張するように、消費税の再増税を中止するとともに、5%への減税を断行すべきである。

 財政再建の観点から、増税を求める意見もみられるが、全国を回っていても「消費税増税で経営が苦しい」との切実な声に数多く接するのが実情だ。

国民生活や企業経営に大きな影響を及ぼす増税が財政再建に寄与するとは考えられない。

 そもそも1000兆円を超える財政赤字を形成した主犯は、集票目当ての利益誘導・バラマキ政治を行ってきた歴代の自民党政権である。失政のツケを増税により国民に負わせるのは道理に反する。

 財政再建に必要なのは、増税ではなく、高い経済成長の達成による税収増である。金融緩和の継続はもとより、大胆な減税や規制緩和を通じて民間活力の発揮を促すとともに、新たな基幹産業の育成・強化を進めることで日本経済の成長力を高めるべきだ。

 増税で国民から富を収奪し、再配分を行う非効率な経済財政運営では、官の肥大化をもたらし、経済成長の原動力たる民間の活力をそぐだけである。

安倍政権は経済活性化に向けて、経済界に賃上げを要請しているが、民間の経営判断などで決めるべき事項に政府が介入するのは、筋違いも甚だしい

企業が賃上げを行い得る環境整備に力を尽くすのが、政府の本来の役割のはずだ。

 監視社会の構築につながるマイナンバー制度も然りだが、安倍政権の政策運営は自由の抑圧をもたらすものとして看過できない。国家統制型の政治手法と決別し、国民の自由を拡大する政治選択こそが、この国に繁栄をもたらすと確信する。

 なお、わが党は高い経済成長の達成と併せて、年金制度の抜本改革など歳出抑制も図ることで、累積財政赤字の解消を目指すべきだと考える。

有楽町駅前街頭演説の様子がyoutubeにアップされました! http://shaku-ryoko.net/etc/8096/

 


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<都知事選候補>民進都議、片山氏で一致 都連が調整へ

2016-06-22 09:43:16 | 日記

毎日新聞 舛添要一知事の辞職に伴う東京都知事選(7月14日告示、同31日投開票)で、都議会民進党(旧民主系)が前鳥取県知事の片山善博・慶応大教授(64)に立候補を打診する方向で一致したことが分かった。民進党都連幹部が21日、明らかにした。


 民進都連は同日、都内で選挙対策委員会を開き、都知事選に擁立する候補者の人選について話し合った。

 都連関係者によると、都議側から「知事経験もあり地方自治が分かっている」として、元自治官僚で鳥取県知事を2期務めた片山氏を推す声が上がった。他にも数人の名前が出たが、都議側は片山氏で一致したという。今後は都連で調整が進められるとみられる。

 委員会終了後、都連会長の松原仁衆院議員は「実務的ではない知事が2代続き、都政を任期半ばで投げ出してしまった」と述べ、実務的な人物が候補者にふさわしいとの見解を示した。委員会で挙がった具体的な名前は明かさなかった。

 片山氏は岡山県生まれ。1974年に旧自治省(現・総務省)入省。99~2007年に鳥取県知事を務め、10年9月から民主党(当時)の菅直人内閣で総務相を1年間務めた。

 民進党の都知事選候補者を巡っては蓮舫参院議員を推す声が上がったが、蓮舫氏は21日に不出馬を表明した。【飯山太郎】


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「(補助金をばら撒いて作った)国の借金1000兆だから、消費増税、その他の増税をするしかない」と洗脳された国民

2016-06-22 08:23:20 | 日記

自民党は 国債を発行して国民から借金をして、それを票が取れるような団体に補助金をばら撒くことによって、補助金行政で選挙に勝ち続けるシステムを作り上げた50年の結果が借金1000兆円だ。

国民が作ったと、ウソで洗脳し、「社会保障を保つため、孫子の代に借金を残してはいけないので、増税はしかたがない。いや、増税しなければ、国が破綻する」と国民に思い込ませた。

正に自民党の思うつぼだ。 この洗脳がうまくいって、先の衆議院選挙で大勝した。

この洗脳を解かなければ、自民党政治、補助金行政が続き、借金1000兆円はさらに増え続けるだろう。

民進党に政権を取らせても、この補助金行政は変わらない。


次に洗脳を解くために幸福実現党の消費税についての見解です。

 『消費税率を上げると、かえって税収は減ります。

「財政赤字なので消費増税が必要」という「常識」には、2つの間違いがあります。

1つは、「消費税を増税すれば税収が上がる」と考えていることです。

1989年の消費税導入前後をピークに、日本の税収は減少傾向にあります。また、1997年に消費税率を2%あげたところ、日本経済は、北海道拓殖銀行や山一證券が破綻するような不況に突入してしまいました。

消費税率を上げることによって日本経済が不況となり、全体の税収が減ってしまったのです。

従って、税収を増やしたいのであれば、景気を回復させて法人税や所得税の税収を増やすべきです。

もう1つの間違いは、政府が「財政赤字だから増税やむなし」と安易に考えていることです。

財政赤字のときに、国民の財産を没収して、政府の負債の穴埋めをしようとする考え方は、国家社会主義的な発想です。

政府の負債を国民一人当たりで割って国民の負債にすりかえることによって、政府は、「国が本来負うべき財政赤字の責任を国民に転嫁しようとしている」といえます。』

http://info.hr-party.jp/policy-qa/

 釈党首は比例から出馬。

【関連記事】
2016年7月号 自民党の正体 - 借金1000兆円になった理由とは?
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11383

2016年4月号 リアル増税人生ゲーム - 重税なければ億万長者!?
http://the-liberty.com/article.php?pageId=1&item_id=10962

2016年6月号 立党7周年 日本と世界をリードした幸福実現党
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11232

2014年6月号 自民党が選挙後 幸福実現党を後追いする理由
https://the-liberty.com/article.php?item_id=7727


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【討論で学ぶ】「原発は要らない! 『核のゴミ』はどうするんだ?」と言われたら (中級編)

2016-06-22 08:16:51 | 日記

【討論で学ぶ】「原発は要らない! 『核のゴミ』はどうするんだ?」と言われたら (中級編)
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11493

ソクラテス、仏陀、孔子の共通点の一つは、「大事なことは対話で教えた」こと。政治のこと、世の中のことも、対話で学ぶとよく分かります。下のような質問に、あなたならどう答えますか?

◆      ◆     ◆

——原発から出る「核のゴミ」は今1万7千トン以上あるとニュースで言っていたぞ。しかも安全に取り扱えるまで約10万年かかるらしいじゃないか。それにもかかわらず、最終的な処分場もはっきりと決まっていない状態で、原発再稼働を進めるのは無責任だろう。

いわゆる「トイレなきマンション」問題ですね。でも、心配ありません。地上ではなく地下の地層に処分すれば大丈夫です。地層処分を進めることは世界の共通の考え方で、技術基盤はすでに整備されています。

例えば、スウェーデンでは地下約500m、フィンランドでは地下420mの最終処分場「オンカロ」に移して地層処分する方針です。

日本も地層処分を前提に、核のゴミを300mより深い地下に埋めることを考えています。人間の生活圏から離せば、影響はありません。


——そうは言ったって、地下水に放射性物質が漏れたらどうするんだ。
その可能性はほとんどありません。

地層処分では、核のゴミをガラスで固め、ステンレスの容器に入れ、緩衝材となる粘土で固めるといった手順が取られています。粘土は水を通しにくく、処分先に地下水の流れが遅い岩盤を選べば、地下水への影響は無視できるほどです。

また、地下は地上に比べて、地震や台風などの自然現象や戦争やテロなどの影響を受けにくい上、酸素が極めて少ないので、容器の腐食もほとんど起こりません。

核のゴミを取り囲む技術力と、地下という場所が持つ利点という、2重のバリアで放射性物質の漏れを防いでいるんです。 

万が一漏れたとしても、放射能温泉よりもはるかに低いレベルなんですよ。


——理屈は分かる。でも、自分たちが住んでいる土地の下に、核のゴミがあると思うと怖いな。

そんなに心配ならば、候補の一つとして南鳥島があります。ここは、太平洋プレート上の安定した地盤にある島。周辺に国もなく、隣国との問題も気になりません。

日本は世界第6位の領土を持つ海洋国家。無人島や離島は多く、核のゴミの処理に適した場所はたくさんあるんですよ。


——いや、そもそも、放射性廃棄物を処理するのはめんどくさい。火力発電を利用して、二酸化炭素を出す方がマシだ。

そうとも言えないんです。
1TWh当たりの発電方法別死者数を見ると、化石燃料では21人の死者が出ている一方、原子力はわずか0.03人(『「反原発」の不都合な真実』より)。その差はなんと700倍です。

実際に、2011年の福島第一原発事故でも、避難生活によるストレスで亡くなった方はいますが、原発事故の放射線で亡くなった人は一人もいないんですよ。

一方で、原発が止まっている間に、化石燃料の輸入コストとして、1日約100億円の国費が流出しています。その上、日本の石油の輸入先である、中東のペルシャ湾・ホルムズ海峡付近では、イランとサウジアラビアが国交を断絶するなど、激しく対立しており、政情が不安定です。

今海峡が封鎖されれば、日本に石油が届かなくなる危険性があります。


——じゃあ太陽光発電や風力発電でいいじゃないか。

こうしたクリーンエネルギーでは必要な電力は賄えません。

太陽光発電で原発1基分のエネルギーを生み出すには、山の手線の内側の面積に当たる太陽光パネル、風力ではその約3.4倍の敷地が必要と言われています。パネルにゴミが付かないよう管理したり、発電量は天候に左右されるなど、クリーンエネルギーは原発の代替エネルギーとしては現実的ではありません。

日本のエネルギー自給率がわずか約4%ということを考えても、国内でエネルギーを賄える原子力発電という選択肢は外せないんです。

【関連記事】
2015年12月号 原発ゼロは安全か!? 「再稼動遅れ」の4大リスク
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10346

2014年1月号 小泉元首相の「原発ゼロ」発言は日本をぶっ壊す - The Liberty Opinion 1
http://the-liberty.com/article.php?item_id=6965


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沖縄で県民大会 本当に"県民"の意思なのか?

2016-06-22 08:13:46 | 日記


http://the-liberty.com/article.php?item_id=11494

沖縄県うるま市で起こった元米兵による女性会社員殺害事件を受け、那覇市にある奥武山公園陸上競技場にて県民大会が行われた。
翁長雄志沖縄県知事は、21年前に起こった米兵による事件を振り返り、知事として政治的な対策を取ることが出来なかったことを謝罪し、普天間基地を県外に移設することを求めた。大会全体としては、事件への抗議や、沖縄から海兵隊の基地をなくすことなどが訴えられた。


◎ほとんどの市長が不参加

「県民大会」と名付けられた今回の大会だが、自民党や公明党や、沖縄県の11市のうち9市の市長が不参加。これは本当に沖縄県民の意思なのか、という疑問が浮かぶ。


また、大会主催者である「オール沖縄会議」は、6万5000人の参加者が集まったと発表したが、会場の規模や写真などから参加者は最高でも3万人前後であると見積もられるという(産経新聞など)。沖縄県の総人口は140万人以上であり、県民の総意というよりは「一部勢力の意見」と言えるだろう。


◎国防に向けて大局的な視野を

この大会で訴えられた「沖縄から海兵隊の基地をなくす」ことが実現すれば、自分たちの手で沖縄を防衛する必要がある。しかし戦後、憲法9条を改正することもできない日本が、今まで海兵隊が担っていた役割をすぐに果たすことができるだろうか。

ここ最近、中国軍艦が尖閣諸島の接続水域に進入するなど、中国の脅威がさらに増し、漁業関係者からは不安の声が上がっている。尖閣諸島を有する石垣市長の中山氏は危機声明を出し、漁業関係者の安全の確保をするように要請した。このように、沖縄では中国の脅威が身近に感じられるようになり、国防の重要性が叫ばれ始めている。

今回のような痛ましい事件を二度と起こさないように努力をすることは大切である。しかし、一人の元米兵が起こした事件から米軍自体の存在を否定し、国家戦略に関わる問題にまで発展させるのは、明らかにやり過ぎだろう。
これは、警察官が事件を起こしたら、「もうわが県に警察は要らない。出て行け」と言うようなものだ。特に沖縄の海兵隊の存在は、沖縄県の安全のみならず、日本とアジアの安全保障にまでかかわる。

感情的になるのではなく、正しい情報に基づいて冷静に判断をした上で、日本はどうするべきなのかを見極めることが大切だ。(志)

【関連書籍】
幸福の科学出版 『沖縄の論理は正しいのか?—翁長知事へのスピリチュアル・インタビュー—』 大川隆法著
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1459

【関連記事】
2016年5月21日付本欄 沖縄で高まる反米感情 「米軍の犯罪率は少ない」という冷静な目も必要
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11348

2016年5月9日付本欄 違法漁船を爆破する「スシ姉さん」 インドネシアのトランプ!? 
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11307

2016年1月30日付本欄 「沖縄を他国の植民地にはさせない」 大川隆法総裁が沖縄で大講演会「真実の世界」
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10855


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蔡英文新政権の「自分の国は自分で守る」決意 台湾海軍が主要艦を自主建造へ

2016-06-22 08:10:45 | 日記

 
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11495

台湾海軍は主力戦闘艦を含む艦艇を自主建造に切り替える方針を発表した。艦艇の自主建造のため、2018〜30年の間で4700億台湾元(約1兆5千億円)を投じる。21日付産経新聞が報じた。


◎中国からの圧力にさらされる台湾

中国海軍は軍の近代化を進めているが、台湾は依然としてアメリカ海軍の中古品を使っている。これは、日本など他の国ではもはや使えないような老朽品となっている。

台湾としては、新しいモデルの艦艇を輸入したいところだが、中国は、台湾も中国の一部とする「一つの中国」原則を掲げ、台湾が自衛力を高めることをけん制している。

中国が台湾の併合を目論む中、欧米諸国や日本などの第三国が台湾の自衛力を高める援助をすると、中国からの猛反発に遭うことは避けられない。

実際に、オバマ米政権は2015年末、台湾に対してミサイルフリゲート艦など、総額18億3千万ドル(約2228億円)相当の武器の売却を発表した。すると中国側は、在中国アメリカ大使館の臨時大使を呼び出し、武器売却に対して猛抗議。関与した米企業への制裁を警告した。

こうした中国の圧力があるため、台湾は、中国に配慮する欧米諸国から武器を調達することは難しい。新しいモデルの艦艇の調達が見込めないため、台湾は自主建造に踏み切ったのだ。


◎軍事技術情報が洩れるリスク

台湾への武器輸出が進まないもう一つの理由として、中国スパイによる情報漏えいリスクがある。台湾の国防事情に詳しい、民進党系のシンクタンク「新台湾国策智庫」の李明峻社長は、弊誌の取材に対し、こう述べている。
「馬政権下の8年間で、台湾で多くの中国人スパイが逮捕されましたが、ほとんどが軍関係者でした。台湾の退役軍人は中国側にさまざまな接待を受け、重要な機密事項を漏らしてしまうのです。アメリカが台湾に最新の兵器を売りたがらないのは、中国側に軍事機密が漏れる恐れがあるからです」(詳細インタビューは本誌6月号 http://the-liberty.com/article.php?item_id=11225 を参照)

こうした状況の中、台湾と正式な外交関係を持たない日本には何ができるのか。

蔡英文新政権で、国家安全会議副秘書長(国防副大臣に相当)に就任した陳文政氏は、就任直前の5月上旬、弊誌の取材に答え、次のように述べている。
「(日本と台湾の)政府同士が軍事情報の交換などを直接できないならば、民間企業を通して、台湾のレーダーが捉えた北朝鮮のミサイル情報や、ゆくゆくは日本の潜水艦技術の情報などをシェアするようにすれば、中国を挑発せずに関係を深めることができると思います」(詳細は、6月30日発売の本誌8月号を参照)


◎日本の国防にも台湾防衛は必須

中国が経済的に力を増す中で、利害関係があるために中国に配慮せざるをえないという国は増えている。しかし、中国の脅威を肌で感じている日本だからこそ、欧米諸国よりも台湾の立場を理解できる。日本まで石油が運ばれるシーレーンは台湾のすぐそばを通っており、台湾は沖縄とも近い。日本にとって台湾の防衛は、自国の防衛の延長にある。

日本政府が表立って台湾と軍事協力する可能性は、現在のところまだ低い。まずは民間交流から徐々に関係を深め、ゆくゆくは、日本政府も台湾関係法の整備などを行い、台湾に「何かあったらいつでも力になる」というメッセージを送る体制を整えることが必要だ。日台関係を強化し、中国に悪を犯させない体制をつくることが、アジアの平和につながる。(小林真由美)

【関連記事】
2016年5月20日付本欄 台湾で蔡英文氏が総統に就任「日米などの民主主義国と全方面の協力を進める」
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11345

2016年6月号 台湾ルポ -国防女子が行く!- 日本と台湾は運命共同体だった
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11225

2016年7月号 蔡英文・新政権が発足台湾との絆を深めよう - 国防女子が行く! 
http://the-liberty.com/article.php?item_id=11370


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南シナ海問題:迫る仲裁判断、関係国の動き活発化 米軍、中国の強硬策を見越し空母派遣

2016-06-22 05:22:34 | 日記

NewSphere 

 南シナ海をめぐる中国の主張と行動の法的是非をめぐって、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所が、近く判断を示すとみられている。

少なくともいくつかの争点について、中国に不利な判断となる、というのが大方の予想だ。早ければ今月にも仲裁判断が下されるとみられており、関係各国の動きが活発化している。

◆フィリピンは国際調停を求めたが、中国は拒絶
 この問題は、フィリピンが2013年、国連海洋法条約(UNCLOS)に基づく仲裁手続を求めたもので、仲裁裁判所が審理を行ってきた。

中国は独自の「九段線」なるものをもとに、南シナ海のほぼ全域について管轄権を有すると主張してきた。フィリピンは、中国が領有権を主張する南シナ海の岩礁などの法的地位をめぐって異議を唱え、また中国のいくつかの行動がUNCLOSに違反していると主張した。

 一方、中国は、同裁にはそれらの問題に対して管轄権がないと主張し、仲裁手続に参加せず、仲裁判断がいかなるものであれ、それに従わないと明言してきた。

それに対し、同裁は昨年10月、フィリピンが訴えた15項目中7項目について管轄権を有することを宣言、残りについては今後の審理などを通じて判断するとした。

 判断が下される時期については、フィナンシャル・タイムズ紙(FT)社説やインターナショナル・ニューヨーク・タイムズ紙(INYT)は、今後数週間以内という予想を伝えており、ウォール・ストリート・ジャーナル紙(WSJ)は、今月にも下される可能性があるとした。

◆中国が恐れている事態とは
 仲裁判断の内容について、FTは、裁判所がいくつかの争点について中国に不利な判断を下すと、多くの専門家が予想していると伝えた。

 ただし、仲裁判断に法的拘束力はあっても、同裁には、それを強制的に執行する力はない。またそれを行う機関も存在しない。

ゆえに、FTは、中国政府は新たな人工島のどれからも撤退しないだろうと語る。ワシントン・ポスト紙(WP)は、この問題は結局のところ、(仲裁によってではなく)世界の力関係のチェスゲームの中で軍事的に解決されるか、あるいは国際世論の空想上の裁判所において解決されるだろう、と述べている。

 それでは、中国は判断を全く気にしていないのかといえば、そんなことはないようだ。

FTは、中国に不利な判断が下されたとして、中国が同裁を無視し、自国の主張を追求し続けた場合、国際的評判をさらに損ない、地域でさらに孤立する危険がある、としている。

中国もそれを承知しているとみえ、FTによれば、中国は、同裁の判断が法的に正当でないという自国の見方に国際社会の支持を集めようと努めてきたという。WPのほうは、支持を取り集めるための必死の取り組み、と語っている。

 WSJは、判断前の最終秒読み段階で、中国は支持集めの大攻勢をかけているとしている。中国はアメリカが南シナ海問題を「国際化」しているとして、ずっと前から厳しく非難してきたが、仲裁判断のせいで中国が孤立する可能性があるという懸念が中国政府内で増大していることが、この大攻勢からほのめかされる、とWSJは語る。今はむしろ中国のほうが問題を「国際化」しているということだろう。

◆世界に多数の味方がいることをアピールしたい中国だが、その実態は?
 その結果として中国は何を得たか。中国は、世界の約60ヶ国がこの問題で中国を支持していると捉えているという。

WSJによると、中国外務省は先月、その合計を40ヶ国以上と見積もり、また国営メディアは先週、60ヶ国近くと見積もったという。

 しかし、WSJを始め、多数のメディアがこの数字を疑わしく見ている。まず、WSJによると、名前を挙げられた国のうち、5ヶ国が中国への支持を即座に否定したという。

そして、WSJ、米シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)が先週それぞれ、各国の公式声明を確認したところでは、中国には仲裁手続への参加を拒否する権利があるということについて、支持を公式に表明している国はわずか8ヶ国だったという。

20日には、カンボジアのフン・セン首相が仲裁判断を支持しないと表明したため、これを加えて9ヶ国としていいだろう。なおその8ヶ国とは、アフガニスタン、ガンビア、ケニア、ニジェール、スーダン、トーゴ、バヌアツ、レソト。アフリカの内陸国も含まれている。

 CSISアジア海洋透明性イニシアチブのグレゴリー・ポーリング部長はWPに、「60ヶ国の主張は全くのナンセンスだ」と語っている。「大多数は非常にあいまいなコメントをしている――平和的解決を支持するとか、交渉が紛争に対処する最良の方法であるとか―――中国はそれをもって、『ほら、それらの国は仲裁問題でわが国の味方だ』と言っているのだ」との見方を示した。

◆仲裁判断後に中国が開き直って軍事化を加速させる懸念
 仲裁判断が出された後の最大のリスクは、中国が自国に不利な判断を激しく非難し、南シナ海で自国の軍事的野心をエスカレートさせる決断をすることだ、とFTは指摘している。

その際中国は、南シナ海の制空権を宣言するか、スカボロー礁での人工島建設を追求するかのいずれかだとFTはにらんでいる。

 アメリカ海軍は、中国が仲裁判断後にそういった動きに出る可能性を見越して、現在、南シナ海に近い、フィリピンの東側海域に空母2隻を派遣し、大規模な演習を行っているもようだ。

INYTによると、空母ジョン・C・ステニスとロナルド・レーガンは、海軍軍人1万2000人、航空機140機、空母より小型の戦艦6艦を含む防空・海洋監視作戦の一環として、フィリピン海で接近して航行した、と米太平洋艦隊が発表したという。それだけの戦力が南シナ海のそばに控えているわけだ。

 INYTによると、この空母2隻とその随行艦による演習のメッセージは誤解の余地がないもので、このタイミングは意図的なものだったと、この作戦の計画作成に通じている米当局者が匿名を条件に語ったという。

実施時期がもっと後になる可能性もあったとのことだが、仲裁判断の発表が迫っているとみて前倒し気味で行ったものだろう。

 また米海軍は先週、電子戦機「グラウラー」4機と軍人120人をフィリピンのクラーク空軍基地に派遣したそうだ(INYT)。

 FTはこれらのアメリカの動きについて、スカボロー礁でのいかなる行動も、アメリカからの重大な反応で迎えられる、というのがその中国政府へのメッセージだと伝えた。そして、これらの米軍の準備からも、仲裁判断後に、南シナ海で米中の緊張が高まる可能性が際立つとしている。


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<ソフトバンク>アローラ副社長退任 孫氏後継白紙に

2016-06-22 05:13:13 | 日記

毎日新聞

ソフトバンクグループは21日、ニケシュ・アローラ副社長(48)が22日付で退任する、と発表した。アローラ氏は孫正義社長(58)の有力な後継者候補と目されていたが、アローラ氏が数年内のトップ就任を望んだのに対し、孫社長が引き続き指揮を執る意向を示しており、トップ交代時期を巡る意見の食い違いが原因とされる。孫社長が描いた後継人事構想は白紙に戻る。

 22日開催の株主総会に諮る取締役選任議案から、アローラ氏を外す。株主総会前日に経営陣の議案を変更するのは極めて異例だ。アローラ氏は7月1日に顧問に就任する。

 ソフトバンクグループが21日夜、発表したコメントによると、孫社長は「まだやり残した仕事がある。少なくともあと5年から10年は社長として率いていく」、アローラ氏は「しばらくの間はサポートを続けていく」とした。

 アローラ氏はインド出身。ドイツモバイル傘下のTモバイルの欧州部門で最高マーケティング責任者(CMO)を務め、米グーグルを経て2014年9月に後継含みでソフトバンク入り。15年6月に副社長に就いた。

 アローラ氏は、15年3月期に入社一時金を含め165億5600万円に上る巨額の役員報酬を得たことが話題を呼んだ。16年3月期も子会社分を含め計80億4200万円の報酬を得ている。【田口雅士】


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選挙資金、クリントン氏が圧倒=トランプ氏の32倍―米大統領選

2016-06-21 21:18:05 | 日記

時事通信

 【ワシントンAFP=時事】米大統領選で共和党の指名獲得を確実にした実業家ドナルド・トランプ氏の選挙資金が、5月31日時点で民主党候補のヒラリー・クリントン氏を大幅に下回ることが20日、報告書類から明らかになった。

 
 連邦選挙委員会の報告書によると、トランプ氏が集めた選挙資金は130万ドル(約1億3500万円)なのに対し、クリントン氏は4200万ドル(約43億8000万円)以上と、約32倍の差がついた。

 クリントン氏の政治資金団体「スーパーPAC(政治活動委員会)」は、これとは別に5200万ドル(約54億3000万円)を用意している。一方、トランプ氏には大口資金提供者がおらず、5月には自腹で選挙資金200万ドル(約2億円)を賄った。


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消えた年金積立金800兆円! 年金保険料、使い込みの罪を正せ!自民党政治を終わらせるべきだ。

2016-06-21 20:17:20 | 日記

 

文/幸福実現党 千葉県本部 副代表 古川裕三


◆政治不信の原因

そもそも、若者の政治離れが進み、全体としても、各選挙の投票率が下がり続けている原因のひとつは、国民の多くが、「政治家は選挙の時だけいいことを言って、通ったあとはやりたい放題だ」、と認識しています。

なぜなら政治家に不信感を抱いているからです。「政治とカネ」にまつわる問題も後を絶ちません。

また、国民は「バラマキ政治」にも嫌気がさしています。選挙前にばらまいて、財政赤字が膨らんだとして後から増税してくる、というパターンに辟易しているのです。

◆年金保険料、使い込みの罪を糺せ

若者の政治離れに歯止めをかけ、国民の政治不信を払しょくするためには、政治家がまず「誠実」であるべきです。少なくとも、嘘を上塗りして失政のツケを国民に回してはいけません。

ここで取り上げたいのは、年金問題です。立党時より訴えておりますが、政府はまず、消えた年金積立金800兆円のけじめをつけよと言いたいところです。

年金制度は当初、積立方式でスタートしたにもかかわらず、いつの間にか賦課方式(現役世代から高齢者への仕送り制度)へと勝手に制度変更されました。

そして納めた以上の年金を高齢者へ給付する大盤振る舞いから始まり、厚労省や旧社会保険庁の官僚たちが天下り先の特殊法人や公益法人を通じて浪費した人件費、福利厚生費への流用、グリーンピアなどの無駄なハコモノ建設など、年金以外の助成金などに使い込まれました。

このことについて、政府は一度でも謝罪したことがあったでしょうか。

年金保険料と称して、税金として使い込んでいたわけですから、その罪は極めて重いです。正義の観点から、歴代の政治家、官僚など、関係者は刑事告訴を受けるべきです。

この事実をひた隠し、「子供にツケを回さない、安心の社会保障のため」と謳って消費税をどんどんと上げようとしているから許せません。

少子高齢化が進展するなか、賦課方式のままであれば、若くなればなるほどその負担が重くなります。

「景気が悪い、給料が上がらない、だけど消費税や保険料は重くのしかかる。」これで若者に希望を持てと言っても無理があります。

私たちは、増税ありきの考えは間違いで、民ありき、国民の豊かさ、幸福ありきであるという信念のもと、「小さな政府」を中軸に、国を守る国防政策、個人が豊かになる経済政策を一貫して7年間言い続けてまいりました。全くぶれていません。

幸福実現党の最大の強みは、正直かつ誠実で、先見性に富んでいるところです。

立党7周年を迎える今年、どうか国民の皆様には、私たちに信頼を寄せていただきたいと心よりお願い申し上げます。

そして最後に、私と同じ若者に一言。

「一緒に変えよう。政策はある。  釈党首は比例から出馬。

   


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大川隆法「笑顔に敵なし」

2016-06-21 14:49:09 | 日記

とにかく、人間は、笑顔の人を見て敵意を抱くことは難しいのです。

これは鉄則です。

笑顔の人を見て敵意を抱くと、よほど自分の性格が悪いように思えるのです。

ニコニコ笑っている人を見て、その人に悪口を言っていたら、

自分のほうが、よほど悪いように思えます。

それでも顔色を変えずにニコニコされたら、もう、かないません。

ギブアップになります。

したがって、「笑顔は敵意を抹消する最大の方法である」ということが言えます。



『コーヒー・ブレイク』P.100

※幸福の科学出版
http://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M278387&c=10209&d=203d

 

 


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私を勘当した父との和解。父の愛が私の心にしみてきました

2016-06-21 14:34:08 | 日記

http://voicee.jp/201404209230

父が決めた進路

「Cには、大学に行くだけの勉強に対する情熱がなか。すぐに働けるように商業高校に行きなさい」

「えっ?」

行きたい高校があり、成績も少しずつ上がってきたときだったので、私は父の言葉にショックを受けました。両親が大学や短大を出ているので、当然、自分も大学に行かせてもらえると思い込んでいました。

「文句があるなら、高校なんて行かんでもよか。中学を出たら働きなさい!」

有無を言わさない父の言葉。私の進路はすべて父が決めました。まるで、父の敷いたレールの上を走らされているようでした。

父への恐怖心

私の父は、中学校の英語教師でしたが、私が小学校3年生の頃に心臓を悪くして、退職することになりました。幸い、母が公務員だったので、なんとか生活は成り立ちましたが、それ以来、「母が働き、父が家にいる」という“夫婦逆転”の生活になりました。

寝たきり生活ではなく、日常生活はできました。ただ、父は家事など一切やらず、母が仕事と家事を両立させていました。昔ながらの家庭で、食事も父が手をつけないとみんな食べられず、お風呂も父が最初と決まっていました。

元教師の父は、その分、私たち子供に対する教育に熱心になっていきました。勉強、立ち振る舞い、箸の上げ下ろしまで口を挟む父。しつけにはうるさく、幼い頃から日本舞踊も習わせられました。特に長女の私に対しては厳しく、手が出ることもたびたびありました。

(まるで、家にも“先生”がいるみたいじゃない。それも恐い先生が……)

私は学校が終わって、家に帰るのがほんとうに嫌でした。そのせいか、中学生になると奇妙な行動をしていました。いつも1日分の着替えを持って学校に通っていたのです。

いざというときは、それを持って、近くに住んでいる祖母の家に逃げ込もうと考えていました。しかし、実際に実行する勇気はありませんでした。やはり、何よりも父が恐かったのです。

突然襲った激痛

商業高校を卒業した後、私は地元の会社の経理部に勤めました。ひそかに一人暮らしを期待していましたが、父は私の給料まで管理しはじめ、それも叶いませんでした。

就職しても、給料は自分には入らず、父から貰うお小遣いでの生活──。

しかも、自宅から会社まで片道1時間半もかかるうえ、残業が多く、体力的にきつくなる一方でした。

そのうえ、職場での人間関係もうまくいきませんでした。職場の上司が、必要以上に私にきつくあたるからです。私がトイレに行っている時間も計っていて、なにかにつけて怒られました。

(なんで、私ばっかり、こんな目に遭うの……)

後で聞いた話によると、自分の縁故者を入社させたくて、私を辞めさせたがっていたらしいのです。

「痛い……」

ある日、下腹部に激痛が走りました。

病院に行くと、尿管結石と診断されました。ふつうは中高年の男性がなるような病気です。「20歳前の女性の尿管結石なんて、はじめて見ました」と、医者も珍しがっていました。

思い当たることがありました。私は、ストレスからか、人の3倍ぐらい食べるようになっていたのです。お昼にお弁当を食べた後、大盛のチャンポンを食べて、さらにピラフをぺろりと平らげる──とにかく、食べても食べても満たされません。私は、今で言う「過食症」に近い状態になっていました。

その後、結石のせいで、お腹がパンパンに腫れ上がり、歩くにも足が上がらないような状態になりました。また、食べるとすぐ吐くので、病院で点滴を打ちながら、会社に行きました。

結局、精神的にもすっかりまいってしまい、私は入社2年足らずで会社を辞めることにしました。

家出

仕事を辞めてからしばらくは、家にいる気にもなれず、療養もかねて埼玉の叔母の家で過ごしました。気分転換にずいぶん旅行もしました。環境が変わったせいか、体調も少しずつ回復していきました。

アルバイトができるようになると、「早く家を出たい」という気持ちが日増しに強くなりました。そして、24歳のある日、私はバッグ1つを持って、何も言わず家を出ました。行き先は、京都。以前旅行したときに、いつか住みたいと思っていました。

「誰にも気を使わずに、大の字になって寝られるような生活がしたい」

それが私の願いでした。

生活が落ち着いた頃、父に知られないように、母親の職場にこっそり電話をしました。

「母さん、私、生きているから大丈夫よ。心配せんでね」

父に連れ戻されないように、固く口止めをしてから居場所を教えました。実家に帰るつもりは、私にはまったくなく、母も私の気持ちを察してか、無理に説得することはしませんでした。

母からの小包

ある日、母から小包が届きました。中には、大川隆法先生の本が入っていました。

(この前、母さん、すごか本が出ているって言ってたな。これのことかな?)

最近、母は「幸福の科学」に入会したことを私に伝えてきていました。私は、半信半疑にその本を手にとって読み始めました。

その本には、「親子の関係というのは非常に縁の深いもので、1回や2回の生まれ変わりでできたものではない」と書いてありました。

(えーっ! 親子の縁って、あの世で約束してくるの?)

父が恐くて、自分に自信が持てず、不幸を環境のせいにしていた私。こんな人生が嫌でたまらず、「もし神様がいるなら、こんな人生早く終わらせて、天国に帰してほしい」とさえ思っていました。

しかし、この世は魂修行の場であり、親も、環境も、自分で選んで生まれてくることを知って驚きました。

そして、大川隆法先生の講演会があることを聞いた私は、いてもたってもいられず会場に向かいました。

私は一言も聞き漏らすまいと、真剣に拝聴しました。話を聴いていると、なんともいえない懐かしい気持ちがしてきました。いつも孤独と不安でいっぱいだった私は、感激で最初から最後まで泣きっぱなしでした。

「なんでこんなに胸が熱くなるんだろう? 私も会員になって、もっとこの教えを学びたい」

感動を抑えきれず、その後すぐに、私は幸福の科学に入会しました。

「言うこと聞かんなら、勘当だ!」

「いつまでも、こんな状態じゃいけないな。そろそろ長崎に帰ろう」

幸福の科学の教えを学びはじめてから、「父とも和解しなくてはいけない」という気持ちが芽生えてきていました。

無断で家出をしてから、もう4年が経っていました。久々に実家の門をくぐるのに勇気は要りましたが、なんとか父と顔を合わせ、あいさつをすることができました。

しかし、自宅に住む気持ちにはなれず、市内にアパートを借りて、仕事をすることにしました。その後、職場の友だちの紹介で主人と出会い、結婚することになりました。結婚の報告をするために2人で実家に行くと、父は意外にも喜んでくれました。

「よか人やかね」

父は主人の人柄が気に入り、上機嫌。

ところが、結婚式の話になると、急に態度が一転しました。

「結婚はよかけど、親戚なんか呼んで派手に結婚式をするのはやめてくれ」

「えっ?」

主人と私は唖然としました。

昔から父は親戚づきあいが嫌いでした。だからと言って、「結婚式をするな」というのは、めちゃくちゃな言い分でした。結局、折り合いがつかないまま、「結婚式は絶対やりますから」と言い捨てて、逃げるように帰りました。

その後、突然、父が私のアパートにやってきました。母も一緒でした。ちょうど、主人と結婚式の打ち合わせをしているときでした。

その様子を見た父はカッとなって、いきなり主人の上に乗っかり、殴りつけました。

「結婚式をするなら、結婚もやめろ!」

「お父さん、やめて!」

母が必死になって止めました。

「言うこと聞かんなら、勘当だ!」

そう言い残して、父は怒ったまま帰っていきました。

結婚式当日の事件

結婚式当日。

父は“体調不良”を理由に参加できないということにしていました。式も終盤にさしかかった頃です。

「それでは、新郎新婦から、ご両親に花束の贈呈です」

司会者の言葉に従って、主人が母に花束を渡そうとしたとき、私は驚きました。

なぜか、そこにいるはずの母がいません。代わりに叔母が立っていました。後で聞いた話によると、式の最中に、「結婚式をやめろ!」という、ものすごい剣幕で怒る父からの電話があり、それを止めるため、母は急いで家に帰ったそうです。


周囲の人は、私たちが動揺しないように、何事もなかったように隠していました。

新婚旅行から帰ってからも、勘当されている私は、実家に帰って父と会うことはできませんでした。長女、長男が生まれたときも、電話で報告はしましたが、病院へ孫を見に来る父の姿はありませんでした。

子供が“親善大使”に

「──Cちゃん、実家に行ってこんね。お父さん、きっと待っとるよ」

幸福の科学の仲間のMさんは、私が父との関係で悩んでいることを知っていて、なにかと相談に乗ってくれていました。すでに勘当されて6年近く経っていました。


それ以来、同じ長崎に住みながら一度も父とは会っていませんでした。

「でも、私、勘当されとるけん……」

「大丈夫さぁ。子供を連れていってやらんね。お父さん、絶対喜ぶよ」

Mさんに背中を押され、2歳の長男を連れて実家に行きましたが、とても父と同じ場に居合わせる勇気がありません。

「これから支部の公案を受けるけん、この子を預かってもらってよか?」

私は玄関先で母親に長男を預けると、部屋にも上がらず、そのまま支部へ向かいました。支部の公案が終わり、ドキドキしながら実家に行くと満面の笑みを浮かべて長男と戯れる父の姿がありました。

「よか子になったね」

怒られるかもしれないと思っていた私は、あまりの父の変わりように拍子抜けしてしまいました。

まるで、子供が私と父の“親善大使”になってくれたようでした。それからというもの、子供たちを連れていくと、父が喜ぶので、私は実家に帰れるようになりました。

父との和解

Mさんに誘われて、精舎研修に参加するようになると、私の父に対する気持ちも次第に変わっていきました。

特に、湯布院正心館で研修に参加したとき、今まで充分に見えていなかったものが見えてきました。

それは、幼少の頃から、父に愛されていた自分でした。アルバムのなかにある、小さな私をまるで宝物のように大切に抱いている父の写真を思い出しました。

「そういえば、いつも父はたくさん写真を撮ってくれたな。年代ごとに整理されたアルバムがいくつもある。どういう気持ちで撮ってくれていたんだろう?」

鬼だと思っていた父の厳しいしつけも、実は大人になってから役立つことばかりでした。

また、自宅でよく勉強をしていた父の後ろ姿が思い浮かびました。いろんな本を読んでくれたり、読書の喜びを教えてくれたのも父でした。

進学についても、今考えると、私の実力や性格を充分知ったうえでの正しい選択だったと思いました。父への感謝の気持ちが込み上げ、「お父さん大好き!」と無邪気に思っていた幼少時代の自分を思い出しました。

そして結婚式の事件──。

「母が代わりに働いていて、プライドが傷ついていたんだ。だから、親戚を呼びたくなかったのかもしれない」

父の立場になって考えてみると、もう、水に流そうと思えるようになりました。

その後、私は実家に帰る前に、幼少時代のかわいがられていた写真を思い浮かべながら、「家庭調和の祈り」※を唱えるようにしました。


心のなかで父と和解するイメージを何度も描いていくうちに、不思議なことに、勘当されたことも忘れるぐらい、お互い仲良く語り合えるようになっていきました。

※「家庭調和の祈り」:幸福の科学の三帰誓願者に授与される『祈願文(2)』に所収の経文。

「おじいちゃんのところに行こうよ」

「もう、自分もそんなに長くないかもしれんね……」

あるとき、父がぼそっと口にしました。

確かに、以前よりだいぶ痩せて、体調もよくなさそうでした。それでも子供たちが来ると、明るく元気に振舞い、孫2人を馬乗りさせながら喜んでいる父の姿がありました。

私と母が、「無理せんでね」と言っても、父はやめませんでした。

「おじいちゃんのところに行こうよ」

子供たちも、父が大好きになり、遊びに行くのをせがむようになりました。しかし、その後、父は入院し、孫たちと遊ぶこともできなくなりました。

父の愛が心にしみて

ある秋の夜のこと、病室でたまたま父と私だけになる時間がありました。

「身体が痛い」と言うので、私は父の身体をさすってあげていました。あんなに大きく感じた父の背中が、なんだかとても小さく感じました。

すると、呼吸器の隙間から、か細い、小さな声が漏れてきました。

「Cは、がんばってるね。ほんとうにがんばってる……」

父にはじめて心の底から褒められた気がしました。思わず涙がこぼれました。

数日後、父は静かに息を引き取りました。父の葬式のとき「お父さんに殴られたことが懐かしいです」と号泣していた主人。

主人も、1年ほど前に入会し、一緒に幸福の科学で学んでいました。

「──お父さん、Cのことが、かわいくて仕方なかったんだよ」

厳しくても、情の深い父であることを主人はよく分かっていたのです。

その後、母から、父が「Cのために」と言って、遺産を遺してくれたことを聞きました。そこに込められた父の愛が私の心にしみてきました。

(お父さん、ずっと私のことを思っていてくれてたんだ……)

この世限りではない親子の絆の強さを感じて、亡き父への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

そのことに気づかせてくれたのは、幸福の科学の教えでした。時間は短くても、父と私は、最後にほんとうの父と娘になることができたのです。



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