デビット・カン著 福音の道しるべ 102
大争闘の最終場面が、次のように描かれている。
「サタンは、エサウを動かしてヤコブに立ち向かわせたように、悩みの時に、悪人たちを扇動して神の民を滅ぼそうとする。そして彼は、ヤコブを訴えたように、神の民に対する非難を申し立てる。彼は、世界を自分の手中にあるものと考えている。しかし神の戒めを守る小さな群れが、彼の主権に反抗しているのである。もし彼が、彼らを地上から一掃することができるなら、彼の勝利は完全なものとなる。彼は、天使が彼らを守っているのを見て、彼らの罪が赦されたことを推測するが、彼らの調査が天の聖所において決定されたことは知らない。サタンは、自分が彼らを誘惑して犯させた罪を正確に知っている。そして彼は、それらを神の前に大きく誇張して示し、この人々は自分と同様に神の恵みから当然除外されるべきであると主張する。主が、彼らの罪を赦しながら、サタンとその使いたちを滅ぼすことは、正当ではないと彼は宣言するのである。サタンは彼らを、自分のえじきであると主張し、滅ぼすために自分の手に与えられるべきであると要求する。サタンが、神の民をその罪のゆえに責めるときに、主はサタンが、彼らを極限まで試みることを許される。神に対する彼らの信頼、彼らの信仰と堅実さとが、激しく試みられる」(各時代の大争闘下巻391ページ)。
この人たちは、ヨブのように試みられるであろう。しかし、神への愛がひじょうに大きいので、十四万四千の人々は、戒めの一つでも故意に破るくらいなら、死を選ぶことだろう。いかなる試練も誘惑も、彼らを屈服させ得ないことを、彼らは全宇宙の前で証する。神の力を通して、彼らは神の律法を遵守する。彼らは悪魔を荒野に連れて行き、そこで千年間さすらわせ、サタンの告発は誤りであって、神は正当かつ公正なお方であることを宣言する。神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐を通して、創られたすべての者は、サタンが間違っていたことを悟るであろう。神の律法を守るのは可能であることを、彼らは理解する。十四万四千が現れなければ、贖罪の日は完了しない。彼らの出現を、全宇宙が待ちわびている。キリストの再臨が遅れているのは、このためである。
今こそ、恩恵期が終わって、仲保者がおられなくなった後も立ち得る品性を、わがものとすべき時である。今、他の何よりも、この経験が必要とされている。
新生への道 : 悔い改め 8
神は、どの罪もみな同じであるとは見なされません。人間と同じように、やはり大小、軽重の区別をされます。けれども、人の目にどんなに小さく見える悪事でも、神の前には、決して小さい罪というものはありません。人の判断はかたよって不完全なものですが、神はすべてをそのあるがままにお量りになります。たとえば大酒飲みは軽蔑されて、とても天国には行かれないと言われますが、その反面、高慢、自己愛、どん欲などは責められず、見過ごしにされがちです。しかし、神はこうした罪を特に嫌われるのです。というのは、これは神の憐れみ深い品性に反し、堕落しない宇宙に満ちている無我の愛の精神に反するからです。何か大きい罪を犯した者は自分を恥ずかしく思い、罪深さを感じ、キリストの恵みの必要を感じますが、高慢な者は何の必要も感じないため、キリストに対して心を閉ざしてしまい、キリストが来られて与えようとしておられる無限の祝福を受けることができないのです。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカ18:13)と祈った哀れな取税人は、自分をひどい悪人であると認めました。また他の人々も同じように、彼をそう見なしていました。しかし彼は、自分の必要を感じ、罪の重荷と恥をいだいたまま神のみ前に出て、あわれみを請い求めたのでした。彼の心は聖霊の恵みある働きにより、罪の力から解放されるために開かれていました。一方高ぶって自分を義としていたパリサイ人の祈りは、聖霊の働きに対して心を閉ざしていたことがわかります。彼は、神から遠く離れていたので、神の完全な神聖さと比べても、自分がどれほど汚れているかを感じませんでした。そして彼は必要を感じなかったので、何も受けることができませんでした。