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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 109

2013年09月08日 | 日記

  

  デビット・カン著 福音の道しるべ 109

 来たるべき活気づけ〔リフレッシュ〕の日とは、後の雨が降り注ぐ時のことである。活気づけとは、「生気回復、更新、または若返り」という意味である。この聖句は、完全な心身の機能を有していた人が神を礼拝していた、堕落前の時代を思い起こさせてくれる。それは、私たちが救いの喜び、神との調和を十分に享受する時代をも暗示している。E・ホワイトによると、福音の宣布が終了するときに、この事が起こる。

 最後に、罪の除去は、私たちにどのような影響を及ぼすのであろう?罪の除去とは、罪の根絶である。神は決して忘れることのできないお方であるが、私たちの罪を忘れる選択をなさるであろう。神が私たちの罪の記録を天の書物から消去なさるとき、私たちの心の記憶からも罪の記録を消去なさるであろう。しかし、私たちの同意と協力なしに、天の書物から記録が消されることはない。つまり、各自が真心から悔い改め、罪を憎み、二度とふたたび罪を犯すことのない品性を有しなければならないということである。救い主を愛するがあまり、戒めを破るよりはむしろ死ぬ覚悟ができているのをご覧になるとき、神はその人の裁きを終えられ、天の書物からすべての罪の記録を消し去られるのである。その時、この人のうちに、福音の目的が成就したと言えるのである。天の記録から罪が消去されるのと同時に、私たちの罪の記憶も消去される。私たちは、罪をまったく思い出さなくなるであろう。このような形で、活気づけの日を経験するのである。

 私たちが罪を告白すると、赦しを受ける。しかしながら、過去に犯した罪の記憶はそのままであり、それらの記憶が魂の奥底に傷跡を残す。罪の記憶が残っているために、私たちは腐敗した経路〔器〕であると、ホワイト夫人は述べている(ⅠSM344ページ参照)。永遠にわたり無垢な状態で神に仕えるには、あらゆる罪の記憶を拭い去っていただかなくてはならない。

     新生への道 : 告白 ②

自分の罪を認めて神の前にへりくだらない者は、神に受け入れられる最初の条件さえ果たしていないのです。二度と悔いることのない悔い改めをし、本当にへりくだった、砕けた心で罪を告白し、自分の罪悪を心から憎んでいるのでなければ、真に罪の赦しを求めたとは言えません。また、罪の赦しを求めたことがなければ、神よりの平和を見いだすことはできせん。私たちが過去の罪のゆるしを味わっていないただ一つの理由は、心を低くして真理のみ言葉の条件に従っていないからで、この点について次のようにはっきり教えられています。罪の告白は、それが公のものであっても、個人的なものであっても、真心から、そして十分に言いあらわされなければなりません。罪人に無理に強いて言わせるものではありません。また、告白は軽率に不注意になされてはなりません。本当に、罪がどんなに忌まわしいものであるかを認めていない人に強いるのもでもありません。心の奥底からわき出てきた告白は、限りない憐れみを持たれる神へ届きます。詩人ダビデは、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」(詩篇34:19)と言っています。

 真の告白は常に、はっきり自分の犯した罪そのものを言いあらわすのです。神にだけ告白すべきものもあるでしょう。また、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもあるでしょう。あるいは公のものであるならば公に告白しなければならないこともあるでしょう。いずれにせよ、告白はすべて、はっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めなければなりません。