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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 117

2013年09月20日 | 日記

    

  福音の道しるべ 117

「シオンの山の小羊とともに、人々の間から贖われた彼ら、すなわち十四万四千が、「神の竪琴を手にして」立つのである。また、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような、「琴をひく人が竪琴をひく音」のようなものが聞こえる。そして、彼らは、み座の前で新しい歌をうたう。この歌は、十四万四千以外のものは、だれも学ぶことができない。それは、モーセと小羊の歌、すなわち、救いの歌である。十四万四千のほかは、だれもその歌を学ぶことができない。なぜなら、それは彼らの体験―他のどの群れもしたことのない体験―の歌だからである。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」。彼らは、地上から、生きている者の間から、天に移された者たちで、「神と小羊とにささげられる初穂」とみなされる。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって」、国が始まって以来かつてなかったほどの悩みの時を通ってきた。彼らは、ヤコブの悩みの時の苦しみに耐えた。彼らは、神の最後の刑罰がくだる中を、仲保者なしで立った」(各時代の大争闘下巻430-431ページ)。

 第一に、十四万四千は、地球最後の住民の中から集められる特別な一団である。彼らは、きわめて特殊な経験をするであろう。かつてなかったほどの艱難を通るのである(ダニエル12章)。まさしく彼らは、死を味わうことのない、最終世代なのである。

 さらに重要なのは、彼らがヤコブの悩みの時を通るという点である。初代文集を読むと、特別な復活の前にヤコブの悩みがやってくることが分かる。


 新生への道 : 献身 

 神は、自分の子供たちが苦しむのを見てお喜びになると考えるのは誤りです。全天が人間の幸福に関心を持っています。私たちの天の父は、だれに対しても喜びの道を閉じられることはありません。しかし苦しみと失望をもたらし、幸福と天国への戸を閉ざしてしまうようなことにふけってはならないと、私たちを戒めておられます。不完全で弱く、欠点があるそのままの姿で人々を受け入れ、これを罪から清め、その血によってあがなわれたばかりでなく、世の救い主は彼のくびきを負い、その荷をになうすべての者の心の願いをかなえてくださるのです。

いのちのパンを求める者に、平和と平安をお与えになるのが神のみ心なのです。また、神は私たちに一定の義務を果たすように要求されますが、それは不従順な者たちには決して到達することのできない祝福の高みに私たちを導くためです。心の真の喜びは、栄光の望みであるキリストを心の中に形作ることです。

 「私はどうすれば神に自らをささげることができるでしょうか」と、尋ねる人が多くいます。そして、自分を神にささげたいと望んでいながら、道徳的な力が弱く、疑いの奴隷となり、罪の生活の習慣に支配されています。どんな約束も決心も、砂で作った縄のようにもろく、自分で自分の思想、衝動、愛情を制することができません。こうして約束を破り、誓いを裏切って自分の誠実さに自信が持てなくなり、神は自分を受け入れて下さらないのではないかと思うようになります。しかし絶望するには及びません。ただ必要なのは、本当の意思の力とはなんであるかを知ることです。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力です。すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのです。神は人間に選択の力をお与えになりました。  

 つまり、人がそれを用いるようにお与えになったのです。私たちは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神にささげることはできません。けれども、神に仕えようと選ぶことはできます。意志は、神にささげることができます。そうすれば、神は私たちのうちにお働きになって、神の喜ばれるように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は全くキリストの霊に支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまた彼と一致するようになります。