このような律法主義の信仰を持ったクリスチャンは、すみやかに彼らの目を十字架に固定し、人間にお与えになった神様の限りない贖罪の恵みを瞑想することで、罪や利己心や世俗的な精神を捨てなければなりません。「神様、哀れんで下さい。私は罪人です」と祈り、自分の傲慢と偽善を捨てなければなりません。魂の悲惨を切実に感じる人、つまり自分に善は全くないということに深く気づいた人だけが、イエス・キリストの義のプレゼントを受け取ることが出来、律法主義の罠から抜け出すことが出来るのです。
この反対に、自由主義者の問題は、神様の律法を守ることが自分の救いとは全く関係がないと思い込むことです。彼らはよく次のような言葉で、十戒に対する服従の必要性を無視します。「十字架によって十戒は不要のものとなった。神様の恵みは律法に対する義務から私たちを解放した。だから私たちは律法を守らなくてもよくなり、ただ十字架を信じれば救いを得ることが出来る」。さらに彼らはこのように言います。「神様のおきては、守る必要もないし、守ることも出来ないのだ」と。
しかしこれは事実でしょうか。神様の言葉である聖書は、律法の有効性について次のように宣言しています。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:17、18)。服従の対価として救いを得るのではありませんが、クリスチャンの心に刻まれた愛は、神様の真理に対して心から服従するように働くということを、自由主義者たち(道徳的敗北主義者)は理解しなければなりません。