5 クリスチャンに与えられる完全な平和
「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)。
律法主義者はどんなに頑張っても、彼らの魂に平和を保つことが出来ません。なぜなら彼らの肉的な心では、決して尊い律法に服従することが出来ないからです。彼らは自らを裁いてしまい、キリストの愛とあわれみを十分受け入れることが出来ないので、赦しに対する確信も持てませんし、罪悪に力強く抵抗できる霊的なパワーも無くしています。
自由主義者は偽りの安心感にとらわれ、律法と聖書が提示している原則に服従することは、律法主義者のすることだと勘違いしています。今日のキリスト教会は、自由主義的な精神であふれています。自由主義は、教会生活を長く続けながらも、新しく生まれ変わる経験をしていないクリスチャンにとって、好都合な教えでした。その結果、様々な流行と飾りと派手な化粧、そのほか各種の世俗的な慣習が、清い神様の教会の中に氾濫するようになりました。さらにはお酒、タバコ、賭博を楽しむような人が、執事や長老の按手を受けるという、ありえない状況を目にするようになりました。聖日を清く守らなければならないという説教や、十分の一献金や各種の献金をしっかりと捧げなくてはならないというメッセージは、ほとんど教会の中では聞かれなくなりました。
現代のキリスト教会が直面しているこれらの症状は「自由主義」がもたらした致命的な弊害であることに気づいているクリスチャンは、どのくらいいるでしょうか。イエス様が天国について説明するために用いられた、次のたとえ話は、今もあらゆる自由主義者に鋭い警鐘を鳴らしています。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13:44〜46)
宝が隠されていた畑の価値はいくらだったでしょうか。 農夫が持っていた物の全てでした。偶然に見つけた良い真珠の価値はいくらだったでしょうか。商人が持っていた物の全てでした。永遠の命の対価とは、自分の以前の生き方を完全に捨ててイエス・キリストが歩まれたその道を歩むことです。そこで聖書はその道に入る門を、狭き門と呼んでいるのです。この文を読まれる方の中で、自由主義的な信仰を持った人はおられないでしょうか。気をつけましょう。最後の審判の日に、皆さんは神様の尊い律法に基づいて、信仰と生涯がそれに一致していたかどうか裁かれるのです。