このような律法主義者は、精神的葛藤に耐えることが出来ず、キリスト教信仰を捨てたり、時には自殺という極限状態にまで陥ることがあります。しかし多くの律法主義者たちは、律法を守れない自分を正当化するために、律法が十字架によって廃棄されたという道徳律廃棄論を受けいれ、自由主義者(道徳的敗北主義者)の道を歩む方へ信仰を転向します。
こうした律法主義者の経験と、自由主義者の主張は似ていますが、全く違う面を持っています。律法を完全に守ることが出来ないという点においては、自由主義者も律法主義者も同じ立場になります。しかし自由主義者はもともと律法が十字架によって廃されたという道徳律廃棄論(自由主義)を信じていたり、どんなに真面目なクリスチャンであっても決して罪に勝利することは出来ないと思っているので、律法主義者のように挫折感を味わったり、神経衰弱になったりはしません。自分たちの不道徳性や神様のおきてを無視する生き方を当然のことと考えているからです。
このような理由から、彼らは律法を無視する罪深い生き方をして、根の浅い幸福感や偽りの安心感を持ち、自己欺瞞の道を歩むことになるのです。しかし、最後の審判の日に、神様のおきてを無視した生活を続けて、本当の自分の姿を見失っていたことに気づいた時、どれだけ驚きおののくでしょうか。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書7:21〜23)。
神様の法である十戒は、十字架によって廃されたので、守る必要がなくなったと思っている方がおられるでしょうか。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるイエスキリストの警告を、どうか軽く考えないようにしていただきたいと願います。