5 罪を正当化するために成立した神学
アウグスティヌスは性(Sex)を原罪と主張しましたが、彼の主張は自分の罪ある過去の生活を合理化するためのものでした。彼は若いころ私生児をもうけ不法な父親になりましたが、それは私生活が敬虔でなかったということを物語っています。アウグスティヌスの生活に見られるこのような弱点は、彼が自分の罪深い生活を正当化するための神学的を構築するように導いてしまったのでした。自分の人生において罪に勝利する生き方が出来なかったアウグスティヌスは、原罪の幅を広げていき、他の問題にまで適用しました。人間は、生まれた時から罪人として生まれたので、罪ある生き方しかできないと言う考えと実体験が、彼の神学を支配しました。どんな牧師であれ神学者であれ、結局は自分の経験以上の説教や神学的な理論を繰り広げることはできないということを、アウグスティヌスの生涯を通して確認することが出来ます。
アウグスティヌスは、肉と霊の間に熾烈な戦いが存在するということを認識することが出来ませんでした。彼は霊が肉に勝てるということ体験できませんでした。クリスチャンが、神様の愛を信じ受け入れた時に与えられる心の驚くべき変化、つまり生まれ変わりの経験を理解することが出来なかったのです。心が新しく入れ代わったクリスチャンにとって、罪に対する勝利はあまりにも自然な結果であることを体験することが出来ませんでした。罪に対する勝利の経験が出来ず、真の生まれ変わりの経験を持たなかったアウグスティヌスは、自分の経験を都合よく正当化させる神学を発展させていったのでした。
人が遺伝的に受け継ぐ、堕落した自己中心的(利己的)な本性そのものを罪と考えたアウグスティヌスにとって、罪は決して勝つことの出来ないものになってしまいました。彼は、罪とは我々が生まれる時から受け継いだ、堕落した本性そのものと定義するまでに至りました。
しかし聖書で、罪とは私たちが生まれる時から受け継いだ、罪の性質や弱さではなく、神様のみ言葉や戒めを、思いや行いで犯してしまう不従順のことを言うのです。聖霊が良心に語られる静かな声を拒んで、不道徳な選びをすることを言います。ですから、神様を第一にして、聖霊の力に助けられながら生きるクリスチャンは、罪に勝ち、罪を征服する生涯を生きることが出来るようになるのです。聖霊に導かれて、気づかせてくださる義の選択と義の決定を通して、罪に勝利することが出来るようになります。