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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

麦と毒麦(人を救う真の福音とは)第7回 デイビット・カン

2017年02月04日 | 日記

4 罪に勝利する人は自分を義人とみなさない

 神様はヨブを完全な人と言われました。「主はサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」(ヨブ1:8)。しかしヨブ自身は、自分で自分を完全だと言うことの危険性について次のように述べました。「たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、彼はわたしを曲った者とする。わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう」(ヨブ記9:20,21)。このような態度こそ、真のクリスチャンが持つべき謙虚さと言えます。

 しかしどれほど忠実な神様の聖徒であっても、目をキリストから離し、自分に向けた時は間違いなくつまずきます。そのような場合にも、聖徒はヨハネ第一の手紙2:1に記された約束のことばに頼って立ち上がらなくてなりません。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」。

 律法主義者に対する使徒パウロの次のような記録は、律法主義者の経験を大変よく物語っています。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。…わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:15,19)。続いてパウロは深い挫折の中から律法主義者の最後の叫びをこのように書いています。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7:24)。

 不幸なことに、律法主義者は自分の心と人生をキリストにすべて捧げたことによって得られる心の平和と救いを、体験することが出来ません。非常に厳格に生きようと務めますが失敗を繰り返すことで、結局は自分自身に失望して挫折するようになります。実際に多くの律法主義の信仰を持ったクリスチャンが、完全になろうとして挫折し、敗北感、失望感にさいなまれながら一生を送っていることは、誠に残念な現実です。