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ひまわりさんより(10月9日)
私は、よく物忘れをするくせに、物が見つからないとイライラして、見つかるまでは気持ちが落ち着かない性格です。今日の朝、出がけに腕時計がないことに気がつきました。時間がないので、必死であちらこちら探したのですが見つかりません。そういえば昨日職場で時計を貸したので、返してもらっていないのかもしれない、と思って探すのをやめて職場へ出かけました。そして、職場でその人に聞いたら、「昨日返して、腕にはめているのを見ましたよ」と言ったのです。そのときも、一瞬、「そういうけど、この人は忘れているんじゃないかしら」、と自分を正しいとして思ってしまいました。そして、こんなことなら一度家に帰って、見つかるまで、探してみようかしらと思ったのです。でも、まてよ、こんなことでイライラしているのは、イエス様の精神ではないな、このような心でいるのはよくないなと思うようになりました。そして、物のことで心を動かされるのはおかしい、物はいつかは消えていくのだから、それよりもイエス様の品性、永遠に続くものに心を向けよう、と思いました。そうするとイライラは消え、1日平安に過ごせました。それから家に帰って、最初に、いつもメガネを収めている縦長のケースにメガネを入れようとしたら、その下の方に時計が入っていました。自分の性格のおかしさに気づかされ、大切な学びをすることができたと思いました。
義は自分の立派な行いではない(デビット・カン講演23)
ルカ18章に、取税人とパリサイ人の祈りが書かれています。パリサイ人は、自分が邪悪な、罪深い者でないことを神様に感謝しました。たとえば、こういう祈りですね。「神様、私は健康メッセージを信じています。このような者になれたことを感謝します。私は什一献金をささげていて、いろんな諸献金もささげています。私は妾とか持っていません」。
このパリサイ人は、自分が習慣、伝統に従って忠実に正しく生きている、だから自分は義なるものだと心から信じていたんですね。一方、取税人は離れて立って、このような祈りをささげました。「神様罪人の私をお許しください」と。
この聖句を、単純に説明したいと思います。実は、今でも、自分の義に頼っている多くのパリサイ人が存在するのです。いいものを食べ、いいものを飲んで、什一を忠実にささげて、夫婦げんかもしないで、短気を起こさないで、教会で人にもやさしく接して、公衆の前で悪い態度をとらないでいるとき、「最近自分はなかなかいい生活をしているぞ」と思うようになり、自分は神様の厚意を受けるに値すると、そのように感じたならば、そのあなたこそが、現代のパリサイ人なのです。
罪や過ちを犯してしまった時あなたはどうしますか。そういう人は自分が良くなったと感じるまで待って、神様に受け入れられると思ったら、神様のもとに行こうとします。何か間違いを犯してしまったとします。短気を起こしてしまったとします。誰かとけんかをしたとします。教会の理事会でけんかをして人とぶつかったりして、面目を潰してしまった、或いは、何か見てはいけないものを見たとします。そういった形で失敗したとします。そういう時どうしますか。お祈りをしなくなりますね。そして、しばらく待って、神様の厚意を受けるにふさわしくなってから、神様のもとにきてお祈りをする、このようにやっていませんか。多くのSDAのクリスチャンが、自分の義は、自分の義なる行為、立派な行いとかにかかっていると、実際には考えています。