クリスチャンは二つの命を持って生きる人です。どんな命でしょうか?召命と使命という命です。 召命とは"召しだされる"ことであり、使命は"遣わされた"ということです。
召命を"呼ばれたこと・calling"とも言います。私たちはこの召命を「ある特別な人が神様に仕えるために召しを受けた」ことだと思いがちですが、それだけではありません。その第一の意味は、私たちがクリスチャンとして神様の召しを受けた者だということです。世の中には多くのcalling がありますが、クリスチャンとして召しを受けることほど価値のあることはありません。クリスチャンという呼び名よりも名誉ある名称はありません。
皆さんがクリスチャンとして召しを受けているという事実について、よく考えてみてください。それがどのような意味を持っているのか黙想してください。何のためにクリスチャンという名前を受けたのか、誰のためにクリスチャンとして生きているのか考えてみてください。
そしてさらに私たちは、もう一つの召しを受けています。これから研究するヨハネの黙示録18章の第四天使の使命への召しと、マタイによる福音書20章の5時労働者への召しです。それはほんとうに特別な召しです。
"神様はなぜ私を召してくださったのか?"この召命がはっきりされなければなりません。召命感がなければ自分がなぜ教会に通っているのか、なぜイエス樣を信じているのか、自分がどのように生きるべきかが不明になってしまいます。ただ、生きて行くだけになってしまいます。献金もよく捧げて、ボランティアも一生懸命にやって、教会の奉仕も忠実にやっているので、なんとなく救われるだろうと漠然とした期待を抱えて生きているだけかもしれません。
そこで神の民たちは明確な召命がなければなりません。召命感は今がどのような時代なのかをわきまえるようにします。神様が私に何を望んでおられるかが分かるようになります。