罪から逃れる道 第5回
へブル人への手紙5章7節から9節を見てみましょう。ここで、イエス様について使徒パウロはこのように説明しました。
「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、・・・」。
イエス様が肉体を取って地上に来られたときは、激しい叫びと涙をもって、父なる神様に願いと祈りを捧げられました。イエス様も、この地上におられたとき、肉の生活を送られたときには、私たちと同じ肉における苦しみがあったのです。ですからここで、イエス様も激しい叫びと涙をもって、ご自分を死から救う力のある方に祈りと願いを捧げたと書かれているのです。そしてそのような経験を通して、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである、と書かれているのです。
ここで、日本語では「深い信仰のゆえに」とあるのですけれど、韓国語のニュアンスとしては、深い敬神の念、その敬神の念のゆえに、という意味になっています。
実は父なる神様も、イエス様が肉をとられてこの地上におられたときに、激しい叫びと涙をもって人間として祈りと願いを捧げられる、そのような姿を見て、イエス様に対して畏敬、尊敬の念を持たれたのです。
イエス様が人として、激しい叫びと涙を持って訴えられるその姿を見て、父なる神様は本当に感動されました。それで、イエス様のそのような深い信仰、敬神の念のゆえに、聞き入れられたと書いてあるのです。イエス様は神様を敬い、見上げられました。そして、激しい涙と祈りを持って戦い、祈られるイエス様を見て、父なる神様は感動を受けられたのです。イエス様がそのような苦しみを通して神様の御心に従おうとされる、そのような激しい願いを持たれて、イエス様が神様の約束に従われる姿を見て、神様はどれほど感動されたかわかりません。
私はこの「深い信仰のゆえに」とある言葉が分かっていませんでした。ここは、イエス様が神様に対して示された深い信仰、深い敬神の念、深い信頼、見上げる心、それだけではなくて、神様がイエス様に対してそのような崇高な思いを抱かれたことが表されていると、ここを読みながら個人的にそのように理解するようになりました。
聖書にはその後に、「彼は御子であられたにもかかわらず様々な苦しみによって従順を学び」とあります。様々な苦しみとはどんな苦しみでしょうか、肉における苦しみなんです。罪を犯したくないという戦い、自己を放棄して、様々な衝動的な思いを放棄して、サタンの攻撃、サタンの誘惑を制する、そのときに起きる戦い、そのような肉における苦しみ、そのような苦しみを通して神様に従うことを体験、実践していかれたのです。