主は生きておられる 第6回
罪人の救い主
皆さん、皆さんの中で「自分は罪人だ。どうしたらいいのだろう?」と思っている人はいませんか?「私のような者は救われる価値のない者だ」と、そのように感じていませんか?そのことを感謝しましょう。イエス様は、まさにそのような人を救うためにお出でになったのです。イエス様の十字架の死によって、自分の罪を自覚する人、罪から救われたいと願っている人には希望があります。
しかし、多くのクリスチャンがそこで止まっています。それだけでなく、主が生きておられるから、私たちは毎日救いの力を受けて生きることが出来るのです。いつも生きて執り成しておられる主のおかげで、日々私たちは救われて、現在の罪の力と悪魔の誘惑から救われていくのです。
これが真の福音です 第21回
私が、イエス様も他の子供たちと同じく、試練にあわれたと説明しました。そうしたら、「イエス様の時代はテレビゲームがなかったじゃないですか」と言われました。人は信じたくなければ、本当に幼稚になります。試練とは何ですか。私たちの意志を神様に屈服させるのか、サタンに屈服させるのか、私たちが、誰を敬愛して拝むのかということです。誘惑の内容や対象は時代によって違いますが、その本質は同じなのです。聖書には、イエス様がすべてのことにおいて、幼い時から青年に至るまで、すべての所で、私たちと同じように試練にあわれたと言っています。
皆さん、イエス様は30年間、私たちと全く同じような人間となられました。人間が、どのように神様の戒めを守っていくのかを、見せて下さったのです。皆さん、もし人間を救うことが、ただ十字架の死で解決することであるなら、いっそ、素晴らしい神様が天から降りてきて、「我は神だ、あなたたちのために死んであげる!」、そう言って十字架に架かられたほうがもっとドラマチックかもしれません。「ワー、神様が私たちのために死んで下さるんだー」。その方が人々にアピールするのではないですか。十字架の死で救うことがすべてならば、それでもよかったはずです。でも神様は、そのような解決法を選ばれませんでした。弱い人間、赤ちゃんとして生まれて、30年間人間として生きられたのです。どうしてそのようにされたのか、皆さん考えてみて下さい。それは、私たちに対して、罪の力から勝利する手本、模範となるためだったのです。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(1ペテロ2:21)