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ひまわりさんより(2月8日)
我が家のジョイは、近所のニワトリ小屋の近くで鶏が鳴くと、怖そうに私の近くにすり寄ってきます。「あんた犬なんだから、ニワトリを怖がってどうするの。しっかりしなさい」と言っても、私の横にへばりついてきておどおどしています。そんなおかしなところのあるジョイですが、人の心をよく見ているなあと感心することがあります。玄関前につないでいると、家の前を挙動不審な人が通ると、必ず大きく吠えます。散歩中、犬好きな人が向こうから来ると、じっと座って動こうとせず、その人が来るのを待ち続けます。それから、人のよさそうな、ニコニコした人が来ると、一生懸命尻尾を振ります。犬に関心がなく、マイペースにジョギングなどしている人が通ると、ジョイもわれ関せずで見向きもしません。ジョイのそんな観察眼を見ていると、聖句を思い出します。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(1サムエル16:7)。心を見られる神様に喜んでもらえるようになりたいと思いました。(左は我が家のジョイ、右はアイスランド・シープドッグです。似ていますね。しかもジョイの方が気品がありますね)
罪の記録と記憶の除去 4
イエス様が天の記録の書から、私たちの罪の記録を最終的に消されるときに、同時に、私たちの記憶から罪の記録を消去してくださいます。私たちはなおも、自分たちが、罪深い、邪悪なものであったことを覚えていますが、自分が過去におかした一つ一つの罪を思いだすことができないようにされるのです。罪人であったけれども、やったことが思い出せないわけですね。そして私たちは、完全な平安、喜びに満たされるようになります。これこそが、至聖所における真の赦しの経験なのです。
イエス様は、十字架で人類の罪を負われました。どのようにそれをなさったのでしょう。私たちが、罪悪感を覚えるのと同じような形で、彼は罪悪感を覚えられたのです。イエス様は、ご自身が盗みを犯し、殺人をし、姦淫を犯し、そのような罪を犯したかのように感じられたのです。
詩篇40編を見ると、そこに、私の罪は私の髪の毛の数よりも多い、上を見ることができません、という言葉があります(12節)。これこそが、イエス様の十字架上での経験を描写した預言なのであります。イエス様は、どのような罪を犯されたでしょうか。彼は純潔、かつ完全であられました。一つの罪も犯されませんでした。にもかかわらず、たくさんの、数知れないほどの罪を犯されたかのように感じられたのです。十字架上で、人類の罪のいたみを激しく感じられたのです。あたかも、ご自身がその罪を犯されたかのように。