十字架に対する大きな誤解 第11回
十字架の死は、人類の罪の身代わりの死であり、それによって、戒めの要求は満たされ、罪の刑罰は終わりました。しかし、そのことで戒めが不要になったのではありません。十字架は戒めを廃したのではなく、むしろ、戒めを高め、戒めが永遠に存続するものであり、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)ことを証明したのです。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。
使徒パウロは、「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ2:14-16)と言いました。ここで言われている証書とは、神様の十戒のことではなく、ユダヤ人たちが守っていたモーセの律法、つまり食物や飲み物や、あるいは祭や新月などの宗教的な儀式の手続きなどを指していました。
絶望から希望へ 第1回 孫 継文(ソン ケムン)
みじめな人間
お会い出来て感謝いたします。皆さんは立派なクリスチャンですね。そして天のお父様が、皆さん一人ひとりをここにまで導いてくださった摂理があると思います。主を愛し、主のみ心に従って生きたいと願う皆さんですね。しかし、これだけがすべてではありません。この状態から皆さんは、一段階上らなければなりません。イエス様はヨハネの福音書3章3節で、「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。「新しく生まれなければ」。これは私たちのことです。教会に行っているから、通っているからといって、生まれ変わった者でしょうか。献金をささげているから新しく生まれた者でしょうか。牧師だからといって新しく生まれた者でしょうか。それらとは異なるものです。
ちょっと深刻になりましたね(笑)。『ローマ人への手紙』7章を見てみると、一人の人が登場します。この人は新しく生まれた人なのかどうかを確認するべきです。なぜならこの人と私の姿を比較すれば、私が今どの状態でいるかがわかるからです。