福音の力を体験せよ 152
私が自らの心を完全に屈服させた次の夜、ある事が起こりました。夫が私に、さほど重要ではないある話をしてきました。彼の立場からは、それは罪と言えるものではありませんでした。
しかし問題は、私が気分を害したことでした。私は再びつまずき倒れ、罪を犯しました。まったく信じられませんでした。ところがその瞬間、夫を恨むのではなく、直ちに「主よ、私は罪を犯してしまいました」と心の中で叫びました。それから寝室に行って、「どうぞおゆるしください。そして、私を再び洗い清めてください」と、祈りを続けたのでした。
それから、次のように祈りました。「主よ、どうか倒れることのない道を教えてください。私は倒れることを願いません。主がこれらの道を示してくださることを信じます」と。
宇宙戦争 26
十字架というのは何でしたか?十字架というのは、私たちの心を変えて下さる力なのです。心を尽くし、すべてを尽くして神様を愛するようにさせて下さる力です。そして神様の言葉を、私たちが守ることが出来るようにさせて下さる力です。神様の言葉、神様の戒めは、すべて私たちが守ることが出来るということが、全宇宙に証明されなければなりません。全宇宙が今、私たちのことを見つめているわけです。天のみ使いたち、他世界の住民たちは、私たちを見て、「ああ、神様のみ旨に従って生きるのが可能なんだ、神様の戒めは愛であって、誰でも従うことが出来るんだ」ということを知るのです。地球に住んでいる私たちによって、神様の愛と、戒めの正しさが明らかにされ、神様の戒めに従うことに本当の幸福があり、神様の力によって、人は戒めに従うことが出来るということが証明される時、ルシファーが犯した反逆は、言い訳ができなくなるのです。私たちは、神様の品性を表す者、その証人、証明者になるのです。
もし、イエス様の十字架だけで神様の品性が証明されたのだというなら、世界は十字架の時に終わりが来てもよかったはずです。神様が、世界の終わりを、2千年も待たれたというのは、神様の品性を反映する、私たちが表れることを待っておられたからなのです。