二人の兄弟についての古い話があります。その話は律法と恵みに対するとても良い例話になるでしょう。兄は裁判官でした。彼の弟が罪を犯して裁判官である兄のところへ連れて来られました。すべての証拠を見れば、自分の弟は間違いなく有罪でした。兄が弟をどのように裁判するか、法廷の中に緊張感が走りました。裁判官はこのような場合でも正義を実行し、公平な裁判が出来るでしょうか?裁判官は自分の弟を真っすぐ見つめながら、厳粛に有罪の宣告を下しました。そして最高の罰金刑を命じた時、法廷中の人々はとても驚きました。しかし裁判官は直ちに降りてきて、弟を抱きしめながら言いました。「お前が罪を犯したために、私はお前に有罪を宣告せざるを得なかった!しかし私はお前が罰金を支払えるほどのお金がないことが良く分かる。心配するな、私がお前の代わりに支払ってあげるから!」
この話は、私たちに感動と教訓を与えます。その弟は肉親である兄からは赦されたのですが、裁判官である兄からの刑罰は免れませんでした。しかし、裁判官である兄は罰金刑を自分が代わりに支払ってあげる事で、法律を廃止しなかっただけでなくその法律をさらに高めました。兄は、たとえ弟であっても、法律の要求を決して見過ごしにできない事を見せてくれました。
そのような意味で、神様も自分の御子を生かすために、律法を廃止する事はできませんでした。戒めは高められなければならず、最高の刑罰が宣告されて、刑罰の代価は支払われなければなりませんでした。
どのような人も、イエス様がどの位の代価を支払われたかを、正しく理解する事は出来ないでしょう。主の中で、愛と正義、赦しと刑罰が完全に調和していることは、なんと素晴らしい事でしょう。律法の要求を完全に満たしながら、罪人を完全に赦し受け入れる神様の救いに、言葉では言いつくせない感謝があふれます。ご自身の体で罪の刑罰を背負う事によって律法の要求を満たし、罪人である私たちを義として下さいました。
十戒が廃止できないために、神様がお取りになった方法を理解できますか?全宇宙の前で、神様はご自身の戒めを擁護するために、これよりもっと確実で反駁(はんばく)できない論証を提示することは出来ませんでした。それにも関わらず、このような驚くべき証拠の前で、誤って導かれたおびただしい人たちが、神様の律法を軽視して、神様の政府の権威を格下げしているのです。彼らは、律法が神様の聖さと義を重んじる品性の反映であることが、理解できていないのです。まして、恵みが律法を廃止したなどと言う事は、天の神様の政府に敵対する企みに加担していることです。
神様の十戒をもう一度、しっかりと見てください!律法は神様の政府の基礎であり、そのお方の品性を反映するものです。神様が、皆さんの生活がどのようになることを望んでおられるのか、知りたいと思うならば、神様の律法を見ればよいのです。そこに神様のご品性が現されています。そこに皆さんの生活と良心を照らしてみて下さい。そして、皆さん自身の力では、その完全な標準によって生きることが出来ない事実を告白して下さい。
それから皆さんの目を、その律法を完全に守られた唯一のお方、そして今まさに、皆さんの心の中に入って律法と調和して生きられるように、力を与えたいと願っておられるそのお方を見上げて下さい。そのお方は律法の義を完全に満たし、皆さんの中に律法の義なる要求を全うして下さいます。ですから皆さんは、その時、使徒パウロと共に、次のように言うことが出来るのです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。