カトリックと大半のプロテスタント教会では、原罪説を教えています。アウグスティヌスとカルヴァンの見解は、教会史の中で長い伝統を持っているかもしれませんが 、聖書の教えとは決して一致していません。
これが正しい見解だと信じる人は、罪は生まれてから死ぬまで継続される、という見解を持つことになります。
私たちは堕落した本性を持って生まれて、その本性を持っているために、
私たちが罪を犯さなくても、私たちはいつも罪人で、私たちが人間として生まれた以上、 罪を犯さないようになることは不可能になります。まさにこれが、ほとんどのクリスチャンが信じている罪の定義です。
原罪論の問題は「罪の傾向を持った性質」と「罪」を同一の概念で見ることです。
それでカトリック教会は、幼児洗礼と告解が、絶対に必要な教理として位置づけられるようになりました。なぜなら人間は「罪の傾向を持った性質」で生まれてきて、その性質を持っていること自体が罪ですから、簡単に言って人は生まれた時から「殺人者」なのです。 殺人者として生まれたから早く悔い改めて罪をなくすべきで、もしその子が洗礼を受けずに死んだらどうなるでしょうか? 殺人者が悔い改めずに亡くなったのだから、救いを受けられません。そこで、幼児洗礼をするのです。
私も、母の代からのクリスチャンで、幼児洗礼を受けた者の一人です。皆さん、聖書のどこに幼児洗礼について言われていますか? この原罪思想を解決するため、反キリストが考案したのが幼児洗礼です。
しかし、問題が生じました。原罪説によると、人間は生まれた時から、自動的に「審判を受けて永遠の滅亡」を受けるしかない罪人であり、受肉されたキリストも罪人になってしまうため、再びカトリックはジレンマに陥りました。
これを解決するため、「マリヤは原罪に汚染されておらず、存在する最初の瞬間から生涯一度も罪を犯さず、そのような状態でイエス様を出産した」という無原罪懐胎(Immaculate Conception)の教理を作りました(カトリック教会憲章56項)。それで現在、カトリック教会では聖母マリヤも、キリストと同じ中保者となっています。 この原罪説を受け入れたプロテスタント教会では、マリヤの教理は受け入れない代わりに、「イエス様はアダムが罪を犯す前に持っていた、罪のない人間性を持って生まれた」という立場を取りました。