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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演31)

2012年10月17日 | 日記



  ひまわりさんより(10月17日)

今日の祈祷会では、エレン・ホワイト著『各時代の大争闘』下巻を読みました。その中に、とても大切なことが書いてありました。「キリストが地上にくだって苦難と死を受けられたのは、ただ人類の贖いを成し遂げるためだけではなかった。キリストは「律法を大いなるものとし」(英語訳)これを「光栄あるものとする」ために来られたのである。この世界の住民が律法を正しく認識するようにするだけでなく、神の律法が不変なものであることを、宇宙の全世界に対して証明するためであった。
多くの教会では、イエス様の十字架の出来事は、完全であって、これで十分だ、と教えられているそうです。それは聖所の働きの中の、外庭の経験であって、その後、聖所の中へ入る経験、そして、恥じるところなく律法の前に立つことができるようにされる経験が必要なのです。

    仲保者なしの経験(デビット・カン講演31)

私たちが印されたあとで、全部の人が印されたら、恩恵期間が終了します。その間に、後の雨、大いなる叫び、迫害とか、様々なことが起こります。そして恩恵期間がとうとう終了した後で、神様は私たちが試みられるために、悪魔に手渡されるのです。その時に「ヤコブの悩み」と呼ばれる悩みの時に私たちは投げ入れられることになっています。
それがどういう意味か、皆さん理解しておられるでしょうか。詳しい内容については、明日の午後話そうと思っていますが、これは極めて重要な、私たちが理解していなければならない点です。イエス様の義が、私たちの義となっているということについて、私たちは理解していなければなりません。そうするときに、やがて私たちは、仲保者なしに神様の前に立つことができるのです





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