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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義(デビット・カン講演15)

2012年10月01日 | 日記



   ひまわりさんより(10月1日) 私の信仰の歩み 第3回

それから、サンライズ・ミニストリーで出している、デビット・カン先生のCDを聞いて、「これだ!」と思いました。今まで自分が学んだことや、わからなかったことが、きちんと整理されていきました。自分がなぜSDAなのか、SDAの持っている真理とは何なのか、そして、SDAとして、これからどう生きていったらいいのか、ということがはっきりしてきました。同時に、なぜかこの真理は、多くの人が好むものではないこともわかり、公に伝えることは難しくなり、それでも語らざるを得なくなり、こうしてブログで紹介させていただいています。では具体的に、なぜSDAなのか、SDAの持っている真理とは何なのかについて、私の理解している所を紹介させていただきます。
なぜSDAなのか:それは聖所の理解にあります。聖所を通して私たちは、神様がこの世界にある罪をどう処理なさるかが分かります。まず聖所の外庭で、イエス様の贖いの功績を理解し、罪を告白して、自己を祭壇にささげる経験をします。それから、祭司として、聖所に入っていき、イエス様の信仰を学び、罪をおかせなくなる、つまり、み言葉がその人の心に宿るという体験をします。次に、至聖所に入って、罪を除去され、罪の記憶さえも取り去られるという経験をします。そのような人たちは、生きてイエス様を迎える人たちで、その人たちを迎えるためにキリストは再臨されるのです。その祝福された人たちがSDA(組織ではなく霊的な残りの民という意味で)なのだと、私は理解しています。また、ほとんどの日曜教会は、外庭の経験で終わってしまっていて、聖所の中の経験について十分知らされていないのではないかと思っていますが、どうなのでしょうか。

   義とは戒めを守り行うこと(デビット・カン講演15)

義を理解するためには、罪とは何かということを理解しなければなりません。1ヨハネ3:4を見ると、「罪は不法である」とあります。まず覚えておきたいことは、義というのは罪の正反対の言葉です。義とは、義なるものになっていることです。では、罪とはなんでしょうか。罪とは不法である、つまり、律法を犯すことであると書かれているのです。次にローマ3:20を見ます。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである」とあります。今、いろんな言葉の定義を行っているんですけれども、義とは何ですか。神の戒めを守り行うことです。罪とは何ですか。神の律法を破ることです。犯すことです。しかし、パウロは、神の前で義とされる人はだれもいない、と言っています。神の律法を行うことによっては、だれも神の前に義とされないと言っています。ある個所では、義とは神の律法を守ることだと言い、一方では神の律法を守ることではだれも義とされないと言っています。どういうことでしょうか? このような聖句を、どのようにして、きちんとまとめて理解できるのでしょうか。混乱してきましたか? 律法を行うことでは、誰も義とされないとあります。エレミヤ23:6に、このように書かれています。「その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」






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