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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 123

2013年09月26日 | 日記

    

  福音の道しるべ  123

「かつてなかったほどの悩みの時」が、まもなくわれわれの前に展開する。それだからわれわれには、一つの経験―今われわれが持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験―が必要なのである。・・・この試練の時に、人間は、みな、自分で神の前に立たなければならない。・・・今、われわれの大祭司がわれわれのために贖いをしておられる間に、われわれは、キリストにあって完全になることを求めなければならない。救い主は、その思いにおいてさえ、誘惑の力に屈服されなかった。サタンは、人々の心の中に、なんらかの足場を見つける。心の中に罪の欲望があると、サタンはそれを用いて誘惑の力をあらわす。しかし、キリストはご自身について、「この世の君が来る・・・。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」と宣言された。サタンは、神の子の中に、彼に勝利を得させるなんのすきも見つけることができなかった。神のみ子は、天父の戒めを守られた。そして、サタンが自分に有利に活用することのできる罪が、彼の中にはなかった。これが、悩みの時を耐え抜く人々のうちになければならない状態なのである(各時代の大争闘下巻396-397ページ)。

  

 新生への道 6 信仰と受容 ⑤

 さて、あなたは自分をキリストにささげたのですから、退いたり、また自分を取りもどしたりしてはなりません。ただ日ごとに「私はキリストのものです。私は自分をキリストにささげました」と言って、聖霊を与えられ、彼の恵みによって支えられるよう祈りましょう。自己を神にささげ、神を信じるとき神の子となるのですから、そのように神にあって生活しなければなりません。使徒パウロも、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい」(コロサイ2:6)と言いました。

世の中には、自分たちは試験されているのであって、心を改めた証拠がなければ、神の祝福を受けることができないと考えている人々がいます。しかし、今すぐにでも祝福を求めて受けることができるのです。神の恵み、キリストの霊を受けて、自らの弱さを補うのでなければ悪に抵抗することはできないのです。イエスは、私たちが罪に汚れどうすることもできないままで、みもとに行くのをお喜びになります。私たちは、弱さ、愚かさ、罪深さなどをみな持ったまま、悔いの涙をもって主の足もとにひざまずいてよいのです。主は愛のみ手のうちに私たちをいだき、傷をつつみ、すべての汚れから清めることをご自分のほまれとなさいます。

 多くの人が、あやまったのはこの点であって、イエスが個人的に、一人一人にゆるしを与えられることを信じないのです。彼らは神のみ言葉をそのとおり信じません。しかし、だれでも条件に従うならば、いかなる罪のゆるしも価なく与えられることを、はっきり知ることができるのです。神のみ約束は、自分のためではないなどという疑いを捨てなければなりません。このみ約束は悔い改める罪人一人ひとりのためです。キリストが備えておられた能力と恵みは、み使いによって、信じる魂ひとつひとつに与えられています。どんなに罪深いからといっても彼らのために死なれたイエスから能力と純潔と義とを受けることができないという人はありません。イエスは罪に染まった汚れた衣を脱がせ、義の白い衣を着せようと待っておいでになります。死ぬことなく、生きなさいと招いておいでになるのです。

  


福音の道しるべ 122

2013年09月25日 | 日記

  

  福音の道しるべ 122

 キリストは、ご自分の一生と死によって、神の義はそのあわれみを滅ぼすものではなく、罪がゆるされ、律法が正しく完全に従うことのできるものであることを証明された。・・・神の律法に対する戦いは、天に始まったが、それは世の終わりまで続くであろう。どの人もみな試みられる。全世界の人々が、従うか従わないかの問題を決定しなければならない(各時代の希望下巻289-290ページ)。

 大争闘の最終章で、イエスの生涯においてあらわされたのと同じ純粋な服従が、最終世代の生涯において再現されるであろう。罪から救われた彼らは、神の恵みの力によって、完全なみかたちに回復されるであろう。これらの人々を罪なき環境〔天国〕に入れても安全であると、全宇宙が認めるようになる。この回復の働きは、安息日の戒めを含む、すべての真理を十分に理解したことに基づいてなされる。真理の理解度に比例して、人は神のみかたちに回復され得るのである。

 「イエスが聖所を去られると、暗黒が地の住民をおおう。その恐ろしい時に、義人は仲保者なしに聖なる神のみ前に生きなければならない」(大争闘下386ページ)。全宇宙は、生命の危険にさらされながらも、神の戒めを守り通す人々の一団を見るであろう。これらの人々は、イエス・キリストの品性を反映する。彼らは神のご品性と律法を擁護し、サタンが間違っていることを証明する。これらの忠実な聖徒たちは、地上歴史の最終時代を生きている人たちで構成されるであろう。何という壮大な光景であろう!堕落した人類が、神の完全なみかたちに回復され、サタンの不当な告発から神を弁護するのである。悪魔が彼らを執拗に誘惑し威嚇しようと試みても、決して屈しようとはしない。彼らを駆りたてるのは救いの報酬ではなく、神の御名からあらゆる非難を取り払いたいという熱意である。

   

 新生への道 6  信仰と受容 ④

イエスは「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と言われましたが、このみ約束には条件が一つあります。それは神のみ旨に従って祈るということです。けれども、私たちの罪を清め、神の子らとして清い生活を送らせようとなさるのは神のみ心です。ですから、これらの祝福を願い求め、それを受けたと信じて神に感謝してもよいのです。イエスのもとにきて清められ、恥じることなくおきての前に立つことができるのは私たちの特権です。聖書にも「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。…肉によらず霊によって歩く」(ローマ8:1,4)とあります。

 ですから、私たちは自分のものではなく、代価を払って買われたものです。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなくきずもしみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(Ⅰペテロ1:18,19)とあります。神を信じるこの簡単な行為によって、聖霊は私たちの心に新しいいのちを与えます。私たちは神の家族の子供として生まれたのです。ですから神はみ子を愛されると同様に私たちを愛してくださるのです。


福音の道しるべ 121

2013年09月24日 | 日記

     

  福音の道しるべ 121

さらに、(恩恵期終了の後)地上に神の刑罰が下るとき、十四万四千は、仲保者なしに生きていかなければならない。天でのとりなしは、いつ止むのか?恩恵期間の終了後、イエス・キリストの仲保はもはや必要でなくなる。仲保者なしに立つとは、一体どういうことなのか?

 いったん天での執り成しが止むと、もはや罪の赦しはなくなる。罪は、聖霊の力によってのみ勝利が可能なのである。十四万四千はなぜ、仲保者なしに立たなくてはならないのだろう?恩恵期間が終了した後も、なおイエスが来臨をしばし遅らせる理由は何なのだろう?聖徒たちはなぜ、もう少し地上に留まらなくてはならないのだろう?

 神は不公平で、その律法には欠陥があるといって、サタンは神を告発してきた。大争闘は、そのはじめから、神の律法が争点であった(人類のあけぼの上巻62-64ページ参照)。悪魔はさらに、律法を守るのは不可能であるばかりでなく、律法を廃止しなければ、罪人の赦しもあり得ないと断言した。アダムとエバが罪を犯したとき、自らの主張が証明されたといって、彼は狂喜したのであった(各時代の希望下巻287-288ページ参照)。それからキリストは、人の肉をとって地上に来られ、私たちと同じ試練に耐えられ、私たちのために勝利なさったのであった。

    新生への道 6  信仰と受容 ③

 罪人である私たちも同じです。過去の罪をあがなうことも、自分の心を変えることも自分自身を清くすることもできません。しかし神は、こうしたことをすべてキリストを通してしてくださるとお約束なさいました。あなたはまずこのみ約束を信じ、罪を告白し、自らを神にささげて、神に仕えようと決心しなければなりません。これを実行しさえすれば、必ず神はそのみ約束を果たして下さるのです。神のみ約束を疑わず、ゆるされ、清められたと信じさえすれば、神はそれを事実としてくださるのです。この病人が自分がいやされたと信じたとき、キリストが歩く力をお与えになったのと同じようにあなたはいやされるのです。信じたようになるのです。 いやされたと感じるまで待ってはなりません。そして「信じます。いやされています。私がそう感じるからではなく、神がこれを約束なさったからです」と言いましょう


福音の道しるべ 120

2013年09月23日 | 日記

  

         

   福音の道しるべ 120

「彼らは、地上が飢饉と疫病で荒廃し、太陽が激しい熱で人々を焼くのを目撃した。そして、彼ら自身も、苦しみ、飢えかわいたのであった」(大争闘下431ページ)。つまり彼らは、最後の七つの災いを目撃し、その時期を生きぬいていくということである。悪人たちは、第一の災いである悪性腫瘍や、第四の災いである炎熱地獄に苦しむであろう。十四万四千は、日曜休業令の迫害を耐え忍ぶであろう。後の雨の力を受けて、彼らは、神の畑の収穫にたずさわるであろう。恩恵期の後、災いが悪人らに情け容赦なく襲いかかるのを、彼らは目撃する。そして彼らはヤコブの悩みを通過し、ついに勝利をおさめる。これが、死を見ることなく天に移される最終世代なのである。

 上の状況を把握するならば、一見わかりにくい下の引用文を、容易に理解できるようになる。

「彼女は印されて、神の声を聞いて現れ、十四万四千と共に地の上に立つのを、私は見た。私たちは、彼女の死を悼む必要がないことを私は見た。彼女は悩みの時には休息している。もし嘆き悲しむことがあるとすれば、それは、私たちが彼女の一団に入る特権を奪われた場合である」(セレクテッド・メッセージ2巻263ページ)。

「そのとき天使は、「あなたは帰らなければなりません。そして、もしあなたが忠実であれば、十四万四千と共に、すべての他世界を訪問し、神のみ手のわざを見る特権が与えられるでしょう」と言った」(初代文集103ページ)。

 これら二つの引用文は、どちらも「十四万四千と共に」という記述がある。「・・・と共に」ということは、その中にはいないわけである。ホワイト夫人のある友人は、悩みの時の間、安らかに眠っているであろうと、彼女は述べた。もしそうであるなら、どうしてその女性は、十四万四千の一員として、悩みの時を通過することができるのか?これは、よくよく考慮すべき問題である。天使は、ホワイト夫人が十四万四千の一員となるとは約束しなかったが、十四万四千と共に他世界を訪れる特権が与えられるだろうと語った。十四万四千は、最終世代だけで構成されている。特別な復活のときに墓から出てくる聖徒たちは、十四万四千と共に立ち、再臨の日時を告げる主の声を聞くであろう。それは、何と輝かしい日となることか!


   真正への道 6 信仰と受容  ②

あなたは自分の罪を告白して、心の中からこれを捨て去り、神に自らをささげようと決心なさいました。ですから今、神のもとに行き、罪を洗い去って新しい心を与えてくださいとお願いしなさい。そして、神がお約束なさったのですから、そうしてくださると信じなさい。これはイエスのご在世の時に教えられた教訓であって、神が私たちにお約束になった賜物は、それを得たと信じるときに、私たちのものとなるのです。人々が彼の力を信じた時、イエスは病気をいやされました。イエスはまず、人々を目で見えるものでお助けになって、目に見えないこと、すなわち罪をゆるす力についても、彼に信頼をおくように教えられました。イエスは中風の病人をいやす時に、このことをはっきりと言われました。「『人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』と言い、中風の者に向かって、『起きよ、床取りあげて家に帰れ』と言われた」(マタイ9:6) 同じように伝道者ヨハネも、キリストの奇跡について「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの間によって命を得るためである(ヨハネ20:31)と言っています。

 イエスが病人をおいやしになったという簡単な聖書の記録から、私たちは罪のゆるしを得るためには、どのようにして彼を信じればよいかについてある程度知ることができます。ベテスダの中風患者のことを考えてみましょう。哀れな病人は38年も体の自由を失っていたのです。しかしイエスは、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われました。この病人は、「主よ、もし私をいやしてくださるならばみ言葉に従います」とも言えたでしょう。しかし彼は、キリストのみ言葉を信じ、自分がいやされたことを信じてすぐに立って歩こうとしました。歩こうとしたときに実際に歩くことができたのです。彼は、キリストのみ言葉に頼って行動しましたので、神は彼に力を与え、彼はすっかりいやされたのです。

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福音の道しるべ 119

2013年09月22日 | 日記

   新種の チョコレートコスモス

 福音の道しるべ 119

 さらに、ヤコブの悩みの直後に、特別な復活が起こる。

「かちどきや、あざけりや、のろいの声をあげながら、悪人たちの群れが、今にもそのえじきに飛びかかろうとするそのとき、見よ、夜の暗黒以上の深いやみが、地をおおうのである。続いて、神のみ座からの栄光に輝くにじが天にかかり、祈っているどの群れをも取り囲むように見える。怒り狂った群衆が、急に引き止められる。・・・この怒ったような天のまん中に、一か所言うに言われぬ栄光に満ちた澄んだ空間があって、そこから神のみ声が、多くの水の音のように聞こえてきて、「事はすでに成った」と告げるのである。

その声が天と地とを震動させる。大地震が起こる。「それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった」。・・・牢獄の壁は砕けて落ち、信仰のためにつながれていた神の民が解放される。

 墓が開かれる。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りない恥辱を受ける者もあるでしょう」。第三天使の使命を信じて死んだ者はみな、栄化されて墓から現れ、神がご自分の律法を守った者たちと結ばれる平和の契約を聞くのである」(各時代の大争闘下巻413-415ページ)。

 上の引用文から、特別な復活の前に、聖徒たちがヤコブの悩みの時を通過することは明らかである。かつてないほどの悩みの時を通るのが十四万四千であるとすれば、特別な復活でよみがえる人たちが、十四万四千にどうして含まれるだろうか?特別な復活にあずかる人たちは、栄化された肉体をもってよみがえる。すでに不死の体を身に付けた人が、ヤコブの悩みを経験する必要があるのだろうか?


     新生への道 6 信仰と受容 ①

 聖霊によって私たちの良心が目覚めると、罪がいかに忌まわしく、罪の力、罪のとが、また罪からくる災いがどんなものであるかがいくらか分かってきて、罪を憎むようになります。罪が自分を神から引き離してしまい、自分が悪の力の奴隷になっていることに気づくのです。逃れようと、もがけばもがくほど、自分の力なさを感じます。動機は不純で心は不潔で、自分の生活は全く利己心と罪ばかりであることを知り、何とかしてゆるされ清められて、自由になりたいと望むのです。神と調和し、神に似るにはいったい何をすればよいのでしょうか。

 あなたに必要なものは平和です。つまり天のゆるしと平和と愛を心にいただくことです。それは、金で買うことも知識で達することも、また知恵で手に入れることもできません。自分の力では絶対に手に入れることは望めないのです。けれども神は、これを「金を出さずに、ただで・・・買い求」(イザヤ:55:1)めることのできる賜物として与えられるのですから、ただ手をのばしてそれをつかみさえすれば自分のものとなるのです。主は、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1:18)。「わたしは新しい心をあなたがたに与え新しい霊をあなたがたの内に授ける」(エゼキエル36:26)と言われます。