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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 104

2014年02月13日 | 日記

   

   福音の力を体験せよ 104

皆さん、私たちは、サタンの方法を使う権利を捨てなくてはいけません。嫉妬、ねたみ、争い、怒り―これらはサタンから来るものであって、神から来るものではありません。私たちは、自らの思いと精神の主導権をだれに与えていますか?誰が、私たちの心を所有していますか?私たちの心には、だれが住んでいるでしょうか?

イエス様は、「その実によって彼らを見わけるであろう」と言われました。私たちがすべての罪を告白するとき、イエス様は真実で正しいお方であるがゆえに、私たちのすべての罪を洗い清めてくださいます。

  真のキリスト者の歩むべき道 10

    ② 人々の手のひらから脱け出しなさい

 私はあらゆるクリスチャンたちに言いたいです。特に牧師、宣教師になろうとする若者たちに、心を込めて訴えたいです。「人々の手のひらから脱け出しなさい」と。天の父なる神様は、私たちが人々に追従する者になって欲しいとは思われません。もちろん、天の父は、私たちが世の人々を愛し、お互いを尊重し合いながら、仲むつまじく過ごす事を願っておられます。

教会の中で、とてもあわれで、見るからにいたわしいものは、神学校を卒業した新米の牧師たちが、良い仕事場を求めて、教区長や地域の有名な牧師たちのために食事をもてなしたりして、ご機嫌をとる事です。必要な教育を受け、神様の働きのために準備ができたならば、ひたすら、天を見上げて祈ってください。「天の父なる神様、私はここにおります。私をおつかわしください」と。そして、神様がどこへ導かれても、そこに行って働きなさい。偉そうな人たちを訪ねて、ご機嫌をとるようなことに心を用いてはなりません。


福音の力を体験せよ 103

2014年02月12日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 103

皆さん、イエス様は花婿です。私たちはキリストの花嫁とならなければなりません。ある青年が、ある若い女性に結婚を申し込んだとします。すると、若い女性は言います。「私はあなたを本当に愛しています。あなたの妻になることを願っています。けれども、今付き合っている男性との関係を、もうしばらく続けてもいいでしょうか?」と。

さて、プロポーズをした青年は何と言うでしょう?きっと、「もう結構です!」と言うはずです。イエス様も同じです。イエス様は、皆さんをサタンと仲良く分け合うことはなさいません。ご自分の花嫁が、彼に心のすべてをささげることを願うのです。私たちは、どちらかの主人を捨てなければなりません。イエス様は姦淫をなさらないお方ですから、花嫁である私たちを、サタンと分かち合うことは決してないのです。

  真のキリスト社の歩むべき道 9

馬小屋で誕生し、人々を教え、癒し、罪を赦し、十字架につかれ、復活されたイエス・キリスト、この方の汚れないご生涯のうちに、永遠の神の愛を見るとき、私たちは、心が砕かれ、罪に汚れた自分もまた、キリストのような生涯を送ることができるとの希望と確信を持ち、日々、キリストの思いを持って歩むようになります。

聖餐式でパンを食べるように、いのちのパンであられるキリストを私たちは日ごとに食べるべきです。つまり、キリストのみ言葉である聖書を心に入れ、その言葉によって歩むのです。私たちが口から食べ物を摂取して胃に送るように、私たちが目や耳で受け止めた聖書の言葉を、魂に受けとめ、それを言葉や行動の原則として生きるようになること、それがイエス・キリストを受け入れることであり、それがキリストを主とする信仰です。

しばしば、聖書のみ言葉よりも、自分の考えや感情を優先させたいという思いが、激しく私たちを襲って来ることでしょう。しかし、み言葉の通りに生きたいと切に願い祈る者に、神様は聖霊を送り、力を与え、罪に勝利させてくださいます。そのときあなたは、全能の神様の力を体験することができるようになるのです。そのようにして私たちは、み言葉に従うことがたやすくなり、み言葉であられるキリストに似たものに造り変えられていくのです。


福音の力を体験せよ 102

2014年02月11日 | 日記

 


  福音の力を体験せよ 102

皆さん、私たちが全身全霊を主のみ前に屈服させるまで、主は私たちを洗い清めることがおできになりません。では、この問題について考察してみましょう。皆さんが神様にすべてを差し出して、ただひとつの罪だけを保留していたとします。そのような皆さんを、イエス様は洗い清めることがおできになりますか?絶対にできません。 

私たちがすべてのものを携えてみもとにやってくるまで、イエス様は戸を叩きながら、ひたすら待っておられます。それがたった一つであったとしても、もし皆さんが特定の知っている罪に今でも執着しているなら、それは、次のように言っていることと同じです。

「イエス様、私は、サタンがもう少しだけ私の内にとどまることを願います。イエス様、私はもう少しだけ、サタンと一緒に過ごしたいのです。」

    真のキリスト者の歩むべき道 8 (A・W・トゥザーより翻案)

     3、力を授かる秘訣

「主は強いみ手を持って、私を捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない」(イザヤ8:11~13)。

どんな時代であれ、人を恐れず神様だけを畏れて、神様のみ声だけに聞き従っていた少数の人々がいました。偉大な預言者イザヤに向かって神様は、「この民の道に歩まないように」と警告なさり、「時代の流れに逆らう者になる」ことを命令されました。

神様がイザヤに与えられた言葉は、「あなたは、イスラエルの大多数の民の歩む方向に行ってはならない。彼らの行動や方式に従ってはならない。ただ万軍の主を聖としなさい。そうすれば、わたしは、あなたの避け所になる」、このような意味を含んでいました。イザヤは、力を得る秘訣を私たちに教えています。私たちが神様の力を得るためには、まさに、主を聖とすることが必要なのです。つまり、主が私たちのすべての力の源であることをわきまえて、その方に完全に頼ることです。時代の流れがどうであろうと、ただ神様のみ心とみ声だけに聞き従う人こそ、力の人となります。神様のみ心に添うものでなければ、時代の流れに逆らい、そのような世の道を思い切って捨て去る人こそ真のキリスト者なのです。


福音の力を体験せよ 101

2014年02月10日 | 日記

  

   

福音の力を体験せよ 101

故に、今現在、皆さんの心の中に何らかの罪悪感があるか、または、人間関係において何らかの誤りがあるなら、これらの重荷をもってイエス様の前に進み出てください。自らの過ちを償うと、神様に約束するのです。過去に人の物を盗んだり、他人に対して何らかの過失があったりするなら、イエス様に告白するだけでなく、負い目がある相手を訪ねて告白してください。過去の過ちを正しく解決してください。 

皆さん、これはひとつの大きな段階です。これは、私たちがすべてを神様と共有することを意味します。私たちが全的に主のみ前に進み出るのを、イエス様はひたすら待っておられます。私たちが自分のすべてを屈服させるまで、主は私たちの内に新しい心を下さることができません。 

“それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。”(ルカ14:33)

“献身は全的なものでなければならない。神は、いかなる保留も部分的な犠牲も、いかなる偶像もお認めにならないであろう。すべての人は、自己と世に対して死ななければならない。”(OHC308)

   真のクリスチャンの歩むべき道  7

《人を恐れず神様だけを畏れなさい》

もし私たちが、神様を心から崇め、神様に対する畏敬の念を抱いているなら、私たちは他の何物も、どこの誰も、恐れることはないでしょう。天の王である方を畏れる者は、地上の王を恐れることはないのです。そのような人は、称賛されても、非難されても、周りの人や状況に左右されません。ですからまず私たちは、真に神様を畏れ、そのみ旨を行う人生を送ることを決心しなければなりません。



福音の力を体験せよ 100

2014年02月09日 | 日記

   

 

福音の力を体験せよ 100

なぜなら、それは私たちが異なる霊に屈服しているからです。皆さん、そのような反逆心を抱いたまま天国に行ける人は、誰もいないのです。従って、悔い改めず、告白せず、捨て切れなかったただ一つの罪でさえ、天国に入れることはできません。罪を犯している間は、私たちが神様と正しい関係を築くことはできないからです。

しかし、私たちのそのような状態を、神様が悟らせてくださるでしょう。私たちを救いたいと願っておられる神様は、私たちに罪悪感を抱かせてくださいます。神様は、私たちがこのままでは滅んで行くことを痛感させられます。そして、私たちが必要を感じて、清めを受けるため、イエス様のみもとに進み出るように導かれるのです。

   真のキリスト者の歩むべき道 6

《日ごとに自己に死ぬべきです》

使徒パウロの証のように、キリスト教とは毎日自我に死ななければならない宗教です。信仰生活は十字架を担う生涯であります。だからと言って、私たちの顔がいつもつらそうに、悲しそうにしているということではありません。たとえ肉体的には苦難があっても、内なる霊は喜びに満ちているのが、キリスト者の本来の姿だと言えるでしょう。しかし、今日の教会は、このような霊的な喜びを知らないために、世の安売りの喜びを買って来ては、そこにイエスの名をつけて、イエスの中で喜ぶべきだと言います。ところがそれは、この世の与える世俗的な喜びであって、パウロが叫んだような、自我の死という苦痛の過程を乗り越えた後、主と共に復活する喜びにあずかることから来る、天来の喜びと平安とはかけ離れたものです。私たちが、自分の罪を認め、罪を悔い、自分を空しくするときに、神様は私たちの心をご自身の聖霊で満たして下さいます。自我の思い、肉の欲を放棄して、代わりに神様のみ霊で満たされ、神様のみ旨だけに生きたいと願う人が、熱いキリスト者なのです。