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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か?  第24回

2016年06月15日 | 日記

今日の異言は、コリント教会であった異言より、さらに混乱や無秩序を招いている点を除けば、その当時の状況とよく似ています。実際の外国語を話すのではなく、世界のどんな言葉とも関係のないうるさい声が空中いっぱいに鳴り響きます。さらに、その異言を解説する人もいないか、いたとしても、その内容が人の徳を高め神様に栄光を帰するようなものではないのです。さらに、最も理解に苦しむことは、現代では、英語だけでなく、韓国語、中国語、日本語、スペイン語など、世界中の言語を通訳できる人たちがいるのに、なぜあえて神様が、存在しない変な言語を通して、御心を伝えようとされるのかということです。聖霊の賜物は教会の徳を高めるために与えられるのに、その正当性については客観的なテストもなく、全面的にその人の言葉だけに依存して、その人の体験やメッセージを受け入れてしまうのはとても危険なことだと言えます。

 そのため私たちは、この最後の時代に起きている多くの異言や聖霊カリスマ運動の風潮は、聖書の重要な2つの真理の標準からかけ離れているという結論を出さざるを得ません。その一つは、聖霊のバプテスマは、神様の真理と戒めに完全に従わない者には与えられないということです。もう一つは、現代の意味不明の異言は、信じない者たちに教え、彼らの徳を高めるという聖霊の賜物の真の目的に全く沿っていないということです。自分たちは異言の特別な賜物を受けて、直接神様に導かれているのだから、文字通り聖書に従わなくても良いとか、聖霊を受けて毎日感謝していれば救われるのだから何も心配いらないというような考え方が広がっています。このようなサタンの考えに振り回されないで、クリスチャンたちは、もう一度正しい聖書の真理に立ち返る必要があります。

 現在多くの誠実なクリスチャンは、聖霊の満たしが神様の教えを犯す人たちにも与えられると信じるよう誘導されています。サタンが幻想として与えるキラキラと輝く光が、神様の火花だと間違って認識されています。世界は真理より奇跡に、もっと大きな価値を置くように洗脳されつつあります。そして、最後の時代にあって、悪霊はすべてのクリスチャンと世界の人々を完全にだます準備を着々と進めています。地球歴史最後の時代には、自分の信仰と体験を、神様の御言葉と真理の上においたクリスチャンだけが、サタンの欺瞞を打ち破ることができます。


異言とは何か?  第23回

2016年06月14日 | 日記

ここで、いくつかの質問を考えてみましょう。コリント人たちは他の人たちが話したり、礼拝している時に大きな声で異言を語り、無秩序と混乱を引き起こしませんでしたか?彼らは明らかに理解できない言葉、他の人の徳を立てないような言葉を語りませんでしたか?彼らは自分たちが特別に祝福を受け、異言を語っているという自負心を持って、自分を高めるためにそれを使用しませんでしたか?コリント人への第一の手紙14章を根拠にした時、このすべての質問に対する答えは、「はい」です。それでは、聖霊は教会を混乱させるために、そのような異言を人々に与えられたのでしょうか?いいえ、聖霊はそのような目的では決して働かれません。

 だとしたら、私たちはコリント教会の状況について、どんな結論を下さなければならないのでしょうか?その弱く未熟な教会の人たちは、ペンテコステにあったのと同じ異言(外国の人々が自分たちの母国語として聞きなれた言葉)が現れたのを見ました。しかし彼らは異言が福音事業において、外国人を教えるために奇跡的に与えられた賜物であることを忘れ、外国語なら何でも神様の特別な祝福の証拠だと考え始めました。

まさにこのような異言の誤用を防ぐため、使徒パウロはコリント人への第一の手紙14章を書くこととなったのです。

 今日、多くの人々が意味不明の言葉を発しながら、集会でぴょんぴょん飛び跳ねたり、体を揺すったりしています。しかし、その場にいる人たちは誰も、その言葉の意味を理解することはできません。これはほとんどの場合、自分が作り出したもので、品のない無秩序な光景です。さらにある人たちは、奇声をあげたり、突然倒れたり、床を転げまわったりして大きな混乱を起こしたりもしています。パウロは言います。「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである…しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい」(Ⅰコリント 14:33,34,40)。

 

彼らが受けた賜物が本当に聖霊の力による発声だったのなら、パウロがその婦人たちに黙りなさいとは言わなかったのではないでしょうか?もしそうなら、パウロは聖霊に対して黙れと命令する罪を犯したことになるのではないでしょうか?28節にあるパウロの命令も同様です。彼は、「もし解く者がいない時には、教会では黙って」いるようにと教えましたが、もし異言を語っている者が聖霊の導きによって、天の言葉を伝えようとしているのなら、どうしてそのような命令に教会員が従うでしょうか。パウロは聞く者たちに徳とならず、その意味を正しく説明できる通訳者がいなければ、偽りの異言であることが多いので、語らないようにと諭したのではないでしょうか。


異言とは何か? 第22回

2016年06月13日 | 日記

また、コリントの教会では、異邦宗教の影響によって使徒の努力が水の泡になる危険にさらされていました。コリントの小さな教会には、聖霊の賜物が豊かに与えられていましたが、異言の賜物をめぐって大きな混乱が起きていました。パウロは、コリント教会に送る最初の手紙の1枚を、この問題を是正するために書かなければならないほど、心配しました。霊的に弱いクリスチャン同士の間に存在する多くの問題が、使徒たちを苦しめました。コリントはいつも改心者を得るには難しい場所であり、新しい信者の心の中から、異教の影響を消すということは、並大抵のことではありませんでした。霊的にも人格的にもまだ成熟していない新しい教会の問題解決のために、パウロは神様のみ心を伝えようと切々と訴えています。

 

では、異言の問題が提起されているコリント人への第一の手紙14章を見ていきましょう。この章全体が異言の問題について扱っています。コリントの教会は、異言の賜物を正しく用いていませんでした。そのために教会内外に大きな問題が起きていました。そこでパウロは、「自分も異言を語れることを神様に感謝しているが、異言よりも預言を語ってほしいと言い、異言を語る者は、それを自分で解説できるように祈るべきであること、集会で異言を語る場合には多くても3人ぐらいにして、解説出来る人がいない場合には黙っているように、また異言で多くのことを語るよりも、人を教えるために少しの言葉でも知性で語る方が願わしいこと、そしてすべての事を秩序正しく行うべきだ」と教えました。

 

コリント人への第一の手紙14章全体が言おうとしていることは、異言を語る者は自分の徳を高めるためにそれを語るが、全ては伝道のために、ペンテコステの時に起きた最初の異言の目的である、福音を証するために効果的に用いなければならないことなどを教えています。

 

[コリント人への第一の手紙 14章1節~40節]

 

14:1愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。

14:2異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。

14:3しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。

14:4異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。

14:5わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。

14:6だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。

14:7また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。

14:8また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。

14:9それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。

14:10世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。

14:11もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。

14:12だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。

14:13このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。

14:14もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 14:15すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと        

共に、知性でも歌おう。

14:16そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。

14:17感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない。

14:18わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。

14:19しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。

14:20兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。

14:21律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。

14:22このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。

14:23もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。

14:24しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、

14:25その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。

14:26すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。

14:27もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。

14:28もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。

14:29預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。

14:30しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。

14:31あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。

14:32かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。

14:33神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

聖徒たちのすべての教会で行われているように、

14:34婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。

14:35もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとって

恥ずべきことである。

14:36それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。

14:37もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。

14:38もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。

14:39わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。

14:40しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。

 

この章を読めば、異言が、特殊な無我の境地で意味不明の言葉を語ることと思っている人は、その根拠になるような聖句を2,3カ所見つけ出すことができるでしょう。しかしそのような聖句は、14章全体の文脈の中で研究されなければならないもので、またここでの異言とは、主に外国語であることを念頭に置いて考えなければ、この文章全体の調和を見ることが出来ないのです。ここでのパウロの主張は「このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである」(22節)という論点を基礎として成立しています。ペンテコステの時、さまざまな外国語を話す未信者たちに、その人々の言語で福音を理解させるために、使徒たちが異言の賜物を受けたことが大きな役割を果たしたことを、忘れてはなりません。


異言とは何か? 第21回

2016年06月12日 | 日記

使徒行伝2章9~11節には、聖霊に満たされた弟子たちが証しを始めると、いろいろな外国語を語り出したとあります。ここを見ると、少なくとも彼らは16か国語を自由に語り出したのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒行伝 2:4)。驚いた聴衆は自らの耳を疑いました。「この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語(In his own native language)を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか」(使徒行伝 2:6-8)。

 

使徒行伝では、異言の賜物がどのようなものであるか、単純明快に描写されています。それは無我の状態で意味不明の言葉を語るのではありません。この時の異言は人々が理解できる実在する言語、外国語でした。外国語が分からない人には意味が分からず異言となりますが、外国語を知っている人にはその意味が分かりました。そのために、様々な人々が自分たちの母国語で語られる福音を聞き、真理を悟り、受け入れるようになったのです。初代教会当時、異邦人に伝道する場合、外国語を話す能力である異言の賜物は、大きな助けとなりました。世界の各地へ福音を宣べ伝えようとする時、言語の壁はとても大きいものでしたが、それを乗り越えさせてくれるこの賜物は、とても重要な助けでした。またある時は、異邦人たちが、ユダヤ人中心だったキリスト教会へ改宗するのを許可する証として、異言が与えられたこともありました(使徒行伝10:44-47)。

  

使徒行伝10章44~47節で、ペテロを通して初めて異邦人に福音の門戸が開かれたのを見ることが出来ます。ペテロが異邦人に福音を伝えている時、聖霊が彼らに臨んだので、ユダヤ人たちは「異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた」。ペテロは「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには」、誰も彼らにバプテスマを禁じることはできないと言いました。

 

ここでペテロは異邦人たちが語った異言を、ペンテコステの時に起きた異言(外国語)と同じだと言いました。彼はエルサレムの兄弟たちにそのことについて報告しました。「そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった」(使徒行伝 11:15)。これは明らかにペンテコステに起きた異言の経験と同じものであることを認めたものです。つまりこの時の異言とは、外国語である可能性が高いのです。そして、使徒行伝19章5~7節の異言についても、この時に与えられた異言の賜物が、ペンテコステの時に現れた異言の賜物と同種のものだということを疑う理由はありません。

 


異言とは何か? 第20回

2016年06月11日 | 日記

5.聖霊のバプテスマの目的

 聖霊のバプテスマについて、最も重大な真理がしばしば見過ごしにされています。この問題は聖霊のバプテスマの目的と関連があります。多くの人々は聖霊のバプテスマの経験を、個人的な無我の境地に達することとか、感情的、内的な幸福感だと考えています。しかしこのような体験を持ったからといって、それが聖霊を受けたとは言えないのです。聖霊のバプテスマを受けた結果として、そのような体験をすることはありますが、そのような体験を持つことが聖霊のバプテスマを受ける目的ではありません。イエス様が昇天される直前、弟子たちに「間もなく」(使徒行伝 1:5)聖霊が臨まれるまで、エルサレムに留まっていなさいと言われた後、彼らに「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝 1:8)と言われました。

 キリストはこの約束を通して、聖霊が彼らに福音を全世界に伝えるための能力を与えることを強調されました。「証人」とは、自分が先に知っている何かを他の人に伝える人です。弟子たちは直接メシヤを目撃したので、他の人に伝えるべき多くのものを持っていました。しかし彼ら自身は、自分たちが見たり聞いたりしたことを記憶し、効果的に伝えることにおいて、十分な能力を持ち合わせてはいませんでした。聖霊が下ることによって、彼らは言葉においてもわざにおいても、力強いキリストの証人とされ、彼らの教えを聞いた人々が信仰へ導かれるように計画されたのです。かつてはたびたび、誰が一番偉いかといって論争していた弟子たちが悔い改めて一つの心となり、主を見捨てて逃げ去った弱い弟子たちが、死をも恐れない信仰の勇者となって、地の果てまで福音を伝えるようにされたのは、聖霊のバプテスマによるものでした。ですから、聖霊のバプテスマは、彼ら自身の個人的な確信のためだけに与えられたものではなく、彼らを通して他の人々が救われるよう導くためなのです。

 弟子たちは、主のお言葉に従い、エルサレムで約束された聖霊を待ち、ペンテコステの日に、ついに聖霊が注がれました。彼らはある家に集まっていたのですが、激しい風のような音と共に天が開けて、舌のようなものが炎のように現れ、弟子たち一人ひとりに臨みました。キリストが預言されたとおりに、約束された祝福が与えられたのです。彼らが人々に接する時に、福音を効果的に伝えるための、天来の能力が彼らの上に臨んだのでした。この力に押し出されて、初代の弟子たちは、地の果てまで福音を宣べ伝えて行ったのです。