SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いの全行程を示す聖なる幕屋 第4回

2016年06月20日 | 日記

2、アダムとエバから始まった聖所制度

 

人間を再び生きるようにしてくださった後で、神様がすぐにアダムとエバに与えられた最初の啓示が聖所の犠牲制度の原型でした。そのことは創世記3章で、エデンの園から追放される人間に、神様が革の服を着せられたという記録の中に見ることができます。革の服を作って着せるためには、動物を殺す必要がありました。ですから聖所の儀式の中には、必ず牛、羊やヤギなどのいけにえとして捧げる動物の犠牲が伴うのでした。その動物の死は、まさに将来十字架で亡くなる罪祭の子羊イエス・キリストを象徴するものでした。従って、聖所制度こそ、神様が人類をどのように救われるのかを、詳しく説明して下さった、神様の贖いの計画の全体を示す青写真でした。

 

神様の戒めを破って死の宣告を聞いたアダムは、神様の贖いの計画の説明を聞き、聖所制度のいけにえについて知った後、感激して、自分の妻の名前を「エバ」と名づけました。その意味は、「生きた者の母」という意味でした。今、死の宣告を受けたアダムにとって、神様の救いの青写真である聖所制度の啓示は、大きな希望を抱かせたのです。そこで彼は、自分の妻を、「生きた者の母」という楽観的な名前で呼んだのです。詩篇77章13節には次のように宣言しています。 「おお、神よ、あなたの道は聖所にあります。誰が私たちの神のように偉大な神がいましょうか」(欽定訳聖書)

 

アダムとエバが罪を犯した直後の、エデンの園に戻ってみましょう。そして、人類の始祖と神様との間にあったと思われる次のような会話を想像してみましょう。この物語は、筆者が作成したものですが、このような内容の言葉が交わされた可能性が大きいと思います。

 

罪を犯した後、震えて立っているアダムとエバに、神様が言われました。

「アダムよ、君の後にいる小羊が見えるか?」

「はい神様、二匹の小羊が遊び回っています。私たちが大事にしている動物です」

「その小羊を呼びなさい」

アダムが口笛を吹くと、二匹の小羊は走ってきて、一匹はアダムの胸に、もう一匹はエバの胸に抱かれます。

その時、神様がまた言われました。

「アダムよ、あそこにある石を二つ取って来なさい」

わけもわからず、石を持ってきたアダムにまた言われた。

「アダムよ、その石どうしをぶつけて割りなさい」

アダムが石を割ると、一つは刃のように鋭くなりました。

神様がまた言われました。

「アダムよ、その石で、小羊の頭を強く殴りなさい」

「神様、この小羊を殺せということですか!?」

驚いているアダムに対して、神様はもっと厳粛に言われました。

「そうだ!」

神様の言葉に背くことのできないアダムは、石を小羊の頭に打ちおろしました。

「もっと強く!」

もっと強く打ち下ろされました。

石に打たれた罪のない小羊は、ぶるぶる震えながら、血を流して死んでいきます。

死の場面に初めて直面したアダムは、恐ろしさに震え、小羊の死骸を地面に落として尋ねました。

「神様、私たちが罪を犯したから、この小羊がこんなにみじめに死ななければならないのですか?」

その時、神様は、次のように言われます。

「いいえ、アダムよ、君たちが罪を犯したゆえに、これから、私が君たちのためにあの子羊のように死ぬことになるのだ」

 

その時、神様の救いの計画の意味することを知ったアダムとエバは、神様の前にひざまずいて叫ぶのです。

「神様、おお、神様、そのようなことをなさらないで下さい。私たちは、そのような愛をお受けすることはできません。私たちの罪のために、神様がこのように無残な死を受けられなければ贖いが達成されないのだとすれば、私たちは、罪を憎みます。おお神様! 私たちは、私たちが犯した罪を本当に憎みます。2度と神様を殺すことになる罪をくり返しません!」

 

聖所の儀式の中には、神様がどのように人間の罪の問題を解決されるのかが、詳細に説明されています。聖所制度は、人間が直接その儀式に参加して、神様が人類を贖われる方法について、生き生きと感じるように計画されました。従って、聖所の研究は、私たちの救いの問題と同じくらい重要なものと言うことができるのです。 


救いの全行程を示す聖なる幕屋 第3回

2016年06月19日 | 日記

神様の選択と計画

 

神様がエデンの園で定められた「善悪を知る木の実だけは食べないように」という言いつけは、目に見える形の戒めでした。創造者である神様を完全に信頼し、神様の支配に従順である時にだけ、安定と平和と幸福があったのです。しかし、人類の始祖はその戒めを破って、サタンのそそのかしの方をより信頼しました。サタンは神様を利己的で不公平な方であるとほのめかしました。この果実を食べれば、神様自身のように目が開かれるので、食べないようにと言われたのだ、また神様の戒めを破っても、決して死なないから心配しないようにと誘惑しました。人類の始祖は、サタンの言葉を神様の言葉よりも信頼して、全宇宙を支配しておられる、神様の政府の基礎的な戒めを破り、反逆することを選択したのです。

 人間の堕落は、神様のお心にあまりにも大きな悲しみと苦しみをもたらしました。その時愛の神様は選択をせまられたのです。罪を犯した人間を、ただちょっとした取るに足りない過ちだからと言って許してしまうなら、全宇宙に住む被造物が、神様の律法を軽視するようになるでしょう。その結果、膨大な反逆と破壊が宇宙を包むようになるでしょう。そのようなことを神様はお許しになることはできませんでした。だからといって、人類がこのまま永遠に望みもなく死んで行くのを、放っておかれることも到底できないことでした。このような相反する立場の中で、愛の神様は人類の罪の負債を代わりに支払い、第二の恵みの期間をもたらすことで、再び人類に生きる機会を与えることを選ばれたのです。

 

神様は人間を、自由意志と自由な選択権を持つ存在として創造されました。自由意志と選択がない人間は、命じられるロボットのように動くことしかできません。また、自由意志と選択がなければ、人格の発達はあり得ないのです。しかし同時に、人間に自由意志と選択を下さったということは、人間が反逆と不従順を選ぶ危険を冒すことでもありました。

従って、神様の創造の計画の中には、人類の堕落の可能性と、その事後対策の計画がすでにありました。それは他でもない神の御子イエス・キリストが、罪を犯した人間のために人間になってこの地上に来られることでした。御子は人間の罪の身代わりに死に、また、彼らに義の生活の模範を示されるのでした。それはひどい苦痛を伴うことであり、神様の命の代価を払うという、ものすごい値を支払わなければならないものでした。

 人間が堕落した後に、神様はその愛の選択されました。神様はあなたに生命を捧げることを選択されたのです。それは決してショー(Show)ではありませんでした。聖所制度の罪祭について学ぶとはっきりしてきますが、イエス·キリストの犠牲は、私たちの頭では到底理解できないほどの、驚くべき愛でした。

様のみ子イエス·キリストの犠牲を通して、人類は第二のチャンスを得ました。神様はアダムを通して生まれてくるはずの多くの子孫を見て、人間がただ生まれては死んでいくだけで終わることをそのままにしておくことができませんでした。

今この記事を読んでおられる読者の皆さんを、神様はご覧になり、救いを与えようとしておられます。私たちが神様の救いを受けて永遠に生きるならば、現在の私たちが持って生まれたこの限りある生命では成就できないほど、無限の価値があることになります。私たちの知識と人格が、継続的に永遠に発展していくことになるからです。それで神様は、これから生まれてくるアダムの子孫たちの中で、救いを選択する人の、その適切な数が満ちるまで、また、罪の歴史を容認することができる期間まで、この地に人が増えることを許可されたのです。

 しかし、人類に二度目のチャンスを与えると同時に、神様はこの地球の歴史に、罪の結果の恐ろしさがそのまま現されるようになることを許可されました。それは天におけるサタンとの戦いが公平で、その処置が正当なものであること、神様の正義が全宇宙に明らかにされる必要があったからです。

従って、人間はこの世に、ほんのしばらく生きては死に、また、罪の結果である悲しみと病と老いの影響の中で生きなければならないのです。ですから、人間がこの世に生まれてくる唯一の理由と目的は、生きている間に、真理と神様を見出し、救われて永遠の命を得ることなのです(使徒17:25-28を参照)。私たちが持つこの生命はどれほど尊いのかわかりません。私たちが神様を発見し、救いの贈り物を受け取るとき、私たちは永遠の命を得ることになるのです。そこで私たちは、現在の私たちの環境がどうであろうが、これからどんな困難や試練を受けるようになるかに関わらず、神様から与えられたこの素晴らしい機会について、永遠に感謝と賛美を捧げるべきです。なぜなら、私たちが今持っている恵みの機会は、驚くべきものだからです。 


救いの全行程を示す聖なる幕屋 第2回

2016年06月19日 | 日記

1、聖所制度が与えられた理由

 

人類の堕落

 

人類の救いの計画である聖所制度は、人間の堕落に由来しました。もし人が罪を犯さなかったなら、永遠に、エデンの園で神様と一緒に住むことが出来ました。死、病気、悲しみ、痛み、老いといった罪の結果も、もちろんこの地球上にはありませんでした。そこには愛と平和と幸福と、永遠に続く喜びと発展だけが存在していたのです。しかし、人類の始祖であるアダムとエバが罪を犯した時から、そのすべての調和は破られ、この世界に取り返しのつかない闇と、災害の影を落とし始めました。「罪の支払う報酬は死」だからです(ローマ6:23)。

 

ところが、聖書は人類の祖先アダムだけでなく、すべての人間が罪を犯したと宣告しています。 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」と使徒パウロは言いました(ローマ3:23)。もちろん、罪を犯して、その結果として罪に弱くなった本性を遺伝させてしまった総体的な責任は、アダムとエバにあります、ですが彼らのすべての子孫も同様に、自分たちの選びによって、罪を犯すようになり、こうして死がすべての人に同じように入り込んだのです。

 

では、なぜ人間は堕落したのでしょうか?その理由は明白です。人が神様の戒めにそむいて罪を犯したからです。その後、罪はどのように成立しているのでしょうか?聖書は、罪を次のように定義しています。 「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。」(Ⅰヨハネ3:4)。つまり、罪とは、神様の律法である戒めを犯すことです。この宇宙には法則があります。神様によって創られたものが存在するためには、一定の法則があります。星が回転する軌道があり、生物が呼吸する生体原理があるのです。この法則が破られてしまうと、秩序と平和と幸福が、いやさらにその生命の存在自体が破壊されてしまうことになるでしょう。

 

自然界と同様に、道徳的そして霊的な世界にも法則が存在します。その法則は、あらゆる面で自然界の法則よりも重要です。道徳的、精神的な法則が、自然界の法則を支配するからです。たとえば、人間が間違った道徳的な法則を立て、原子爆弾を作成すると、自然界に多大な破滅を招くことになります。また、その道徳的な法則を破って人殺しや戦争が起きたら、家族、近所の人たちだけでなく、全世界の人々、さらには、全宇宙に大きな悲しみと苦しみをもたらすことになります。私たちは、この世界で、神様の戒めを破ることである詐欺、窃盗、強姦、殺人、親不孝、憎しみ、嫉妬などがもたらした恐ろしい結果を目の当たりにしているのではないでしょうか!人は神様の政府の基礎である律法、つまり宇宙を支配している神様の憲法を破る罪を犯したので、堕落し、その結果として恐ろしい死に至ったのです。


救いの全工程を示す聖なる幕屋  第1回

2016年06月17日 | 日記

第1部:聖所は贖いの青写真

 

聖所が与えられた理由とその重要性

 

聖書通読をしようと決心した多くのクリスチャンが、創世記はよく読んでいくのですが、出エジプト記の後半からレビ記のあたりへ来ると難しさを覚え、退屈を感じてざっと読んだり、その部分は読まずに飛ばしてしまうことがあります。その理由は、出エジプト記の半ばを過ぎたあたりから、レビ記全体が、理解するのが難しそうな聖所の器物や各種祭事の説明が次々と出てくるからでしょう。しかし、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。(Ⅱテモテ3 :16,17)と述べられています。すべての聖書の御言葉は、明らかに神様の霊感によって書かれたものであり、一言一言が私たちを教育して、完全な者にするように書かれたのものであることを否定することはできません。そうであるとすれば、聖書の最初の部分である出エジプト記とレビ記に、繰り返し説明されている聖所の記事を無視したり、旧約聖書に書かれたものだから、すでに過ぎ去ったものとして覆っておくことができるでしょうか?そんなことはできません。実は聖所制度には、私たちが考えている以上の驚くべき贖いの摂理があります。聖所は、神様が人類を救われる過程が細かく描かれている青写真なのです。

 

実際に聖所制度の起源は、創世記に記録されています。アダムとエバが罪を犯した後、神様が着せられた皮の衣を通して、犠牲が必要な祭祀制度を、見せて下さいました。従って聖所制度は、神様が罪の問題をどのように解決されるのか、どのように罪を犯した罪人が再び罪の問題から回復して、神様の前に立つことができるかを示しています。

 

アダムとエバの罪のために犠牲にされた動物は、イエス様を象徴していました。そしてモーセの時代に、当時の人々の罪のために犠牲になった動物たちもまた、イエス様を象徴します。ここで分かることは、聖所の儀式一つ一つは、イエスの奉仕の生涯と働きを意味すると同時に、神様を信じる者たちの救いの経験と段階がどうあるべきかを説明しています。

 

この冊子は、聖所制度が開始された理由と聖所の重要性、聖所のモデルが与える意味、聖所の器具が持っている意味、聖所で行われた祭祀制度が私たちに与える意味、そして聖所を通して、イエス様の過去·現在·未来の働き、そして、私たちが現在立っている場所と立っているべき場所などを、詳しく簡潔に説明しました。この小冊子を学ばれることによって、聖所を通して見せて下さった素晴らしい救いの道、神様に近づく道を発見され、その道に歩むことによって心に真の平安を見出されることを願っています。

 


異言とは何か?  最終回

2016年06月16日 | 日記

6.次の質問について深く考えてみてください!

 

❶ あなたは聖霊の賜物を求める前に、聖霊の9つの果実である愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が、自分の品性と生涯の中で満ち溢れるほど実を結んでいるかを考えてみましたか?聖霊の実が結んでいないクリスチャンに聖霊の能力が与えられると思いますか?

 

❷ あなたは安息日の戒めを含め、神様の十戒と真理を故意に否定したり、拒絶したりする人々に聖霊の能力と賜物が与えられると思いますか?もし神様の御言葉を拒絶、否定する人も聖霊のバプテスマを受けられるとすれば、誰でも聖霊の賜物と能力を受けられるということでしょうか?聖霊の賜物が、それを受ければ利己的に自分を高めるために用いるような、品性が変化していない人たちにも与えられると思いますか?

 

❸ 異言が与えられた目的は何でしょうか?信仰的な満足ですか?それとも、言語が異なる人々に伝道するためでしたか?

 

❹ 日本語で日本人に説教するのに、異言を使用しなければならない理由は何でしょう?日本人が日本人に説教しているのに、異言を語りその通訳を置く必要があるでしょうか?現代の教会では、異言を語る人自身も何を言おうとしているのか分からず、聞く人も理解できない奇妙な状況が続いています。そのようなことが聖書的に、理性的に、また常識的に納得がいきますか?

 

❺ あなたは、神様の奇跡を切に求めるほど、神様の真理を重要に思っていますか?あなたはイエス様を愛するだけでなく、イエス様の真理と戒めを愛し、従っていますか?あなた自身の信仰的な経験が神様の御言葉である聖書と一致しない時、あなたは自分の経験を否定できるほど、聖書の言葉の権威を認めますか?