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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

サムエルの経験 第7回 デイビット・カン説教より

2016年10月10日 | 日記

義の教師が教会にいない!?

 

こういったことが今私たちの教会でも起こっていないでしょうか?現在も忠実な、誠実な民が何人かいます。心の清い人たち、真心から真理を求めている人たちです。彼らが聖書、証の書を真剣に学んでいると声が聞こえてくるわけです。「自分や教会はこのままでいいのだろうか?」。しかしどうしたらいいのかよくわからないのです。それを正しく教えてくれる義の教師が教会に、身の回りにいないわけです。どうしたらよいのでしょう。他にすべがないので偉い先生の所に行くわけですね。経験豊富な牧師たちの所や、あるいは教師たち、長老たちの所に行きます。ところがそうすると、時にはその人は狂信的だと思われる時があります。時には「イエス様が間もなくお出でになる」ということを教会で語ったならば、そんなことで教会を騒がしてはいけないと言われてしまいます。神の民を脅かしていると・・・。

このサムエルの経験は、私たちが自分自身の経験にあてはめること出来るのです。ですから『コリント人への第一の手紙』第10章で、パウロはこの神様の言葉は「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」と、つまり、最後の時代のために書かれていると言ったのです。神様の言葉というのは鏡のようなものです。アブラハムの所を読みますと、そこに自分自身を見ることが出来ます。それから今現在の教会の状況も映し出されているのが分かります。ですから、イスラエルの歴史を読んでいきますと、自分自身と今の教会の姿が、映し出されているのが見えます。

日本の兄弟姉妹の皆さんに申し上げたいことがあります。この聖書というのは、私たちのために書かれたものです。特に今の世代のために、過去の世代の人たちのため以上に、特別に私たちのための書物なのです。なぜなら私たちはこの神様のみ言葉が、神様の預言が、結末を迎える時に住んでいるからです。そういう意味で私たちは、使徒パウロよりも、使徒ヨハネよりも、もっと私たちは聖書の真理を理解していると言えるのです。私たちが彼らより優れているという意味ではありません。私たちの知能指数が、彼らより高いという意味ではありません。ただ私たちは、積み重ねられた真理の光に浴しているからなのです。神様からの祝福がさらに大きいという意味です。

しかしながら、この私たちの世代というのは、弱い人たちの集まりでもありますね。ですからサムエルの歴史を見る時に、これも鏡のようなもので、私の経験が、教会の経験がそこに映し出されているのです。私たちが聖書を読む時に、その中に神様は、ご自身の姿と、私たち自分自身の状態を示して下さっているのです。聖書を見ると、そこに本当の神様の姿を垣間見る事が出来るようになります。聖書の至る所に神様の姿が映し出されています。


サムエルの経験 第6回 デイビット・カン説教より

2016年10月09日 | 日記

その後彼女は、自分が身ごもっていることを知りました。その時から彼女は聖所に行くのを止めまして、祈りのうちに、サムエルという授かった子を彼女は懸命に育てました。何年かたちまして、まだ幼い子サムエルを聖所に連れて行き、そして聖所の働きに息子を捧げたわけです。ハンナの物語は皆さんもよくご存知だと思うのですけれど、サムエルがその後どうなったか、皆さんご存じのように、ある晩彼が寝ていたら「サムエル、サムエル」という声がしました。サムエルは飛び起きて大祭司エリの所にやって来まして、「私を呼ばれましたか?私はここにいますよ」、と言いました。「いや、私は呼んでいないよ」とエリは言いました。「あなたはまだ子供でしょう。何か変な声が聞こえるのか、何かありもしない声が聞こえてくるのか?まあ、とにかく戻って寝なさい」。そこでサムエルは自分の床に戻って寝たわけです。そしたら再び声が聞こえてきまして、「サムエル、サムエル」と呼ぶわけです。そこで飛び起きてエリの所へ行って、「今私を呼びましたか、私はここにおります」。「いや、私は呼んでいない」とエリは言うわけです。「頭がどうかしていないか、何かおかしな声が聞こえるのか、こんな真夜中に、他には誰もいないのだから、誰がお前を呼ぶんだ。私は呼ばなかったよ、何か頭の中がおかしなことになっていないか」と言うわけです。「まあ、戻って寝なさい」。そこでサムエルは再び床に戻って寝るわけです。三度目に神様は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。サムエルは、再び飛び起きてエリの所に行って「私を呼びましたか」と言いました。どうしてサムエルはそういうことをしたのでしょうか?今まで、神様の声を直接聞いた人に彼は会ったことがなかったのです。大祭司もそういう人ではありませんでした。他の教師たちもラビたちも、神様の声を聞いたと言う人はいなかったのです。彼らは義の標準というのがよく分かっていなかったのです。神様の声、神様の言葉を聞いて理解するという、そういうお手本をサムエルは見たことがなかったのです。ですからよく分からなかったので、彼はエリの所に行くしかなかったのです。


サムエルの経験 第5回 デイビット・カン説教より

2016年10月08日 | 日記

 サムエルを召される

 

ハンナは、教会の真の神様の民を代表していて、本当の子供を神様からいただきたいと神様と格闘する人、その象徴であったわけです。ハンナは祈っていました。本当に神様に息子を与えて下さいと熱心な祈りを捧げていました。そして彼女が聖所で、教会で祈っていたら、祭司エリがそれを見て、ハンナは頭がおかしいと思ったわけです。自分の魂を注ぎだして、彼女は神様に熱心に祈りをささげていたわけですね。当時も今も、多くの人たちが聖所にやって来て、教会にやって来てお祈りをしますね。でもたいていのお祈りは、他の人と何ら変わりない普通のお祈りなんです。ある時には、ただの儀式的な形式的な祈りと化しています。それは本当の祈りではないですね。しかしハンナは、神様に心を注ぎ出して祈っていました。神様と格闘していたのです。ところがそういった様子は、大祭司エリにとっては狂信的に見えたのです。その状況を私たちの経験とあてはめてみて下さい。エリは彼女が酔っ払っているのではないかとさえ思ったのです。そしてその結果エリはハンナの所へ行って「どうして神の家であなたは酔っ払っているのだ」、と彼女を叱ったわけです。      サムエル記上の1章10節11節をご覧ください。

「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。そして誓いを立てて言った、『万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません』。

 ハンナもまた教会に神様の霊が、聖霊が欠けているのを見ていました。そこで彼女は、神様から息子を授かったならば、教会の霊的指導者にしたいと願ったわけです。日本にもハンナのような人物がいますか?イスラエルの母、教会の回復を強く願っている人物、皆さんも教会のために祈っていますか?聖霊に満たされるべき指導者たちのために、皆さん祈っていますか?


サムエルの経験 第4回 デイビット・カン説教より

2016年10月07日 | 日記

ハンナの熱烈な祈り

 今現在、どうしてこれほど私たちの教会で聖霊が欠乏しているのか皆さんご存知でしょうか?サムエルのような器を神様は教会に見出すことが出来ないからです。そういう人を通して神様は、教会に聖霊を注ごうとしておられるわけです。そのために皆さんも祈る必要がありますよ。私が信じている事があります。もうこの私たちの教会の恩恵期間というのはあまり残っていないと思います。私がこういうことを言うと、この教会にとっての恩恵期間が閉じるのは本当に間も無いと私は信じていますと、こういうことを言うと多くの人に嫌われてしまいます。本当に憎しみを受けます。でもそのことを私は信じるのです。現在の神の民が、神様のみ言葉の本当の理解から遠ざかってしまっているからです。

当時ハンナという女性がおりまして、彼女は聖所に行ってそこで祈り始めました。子供が授からなかったので、そのためにそこで祈っていたのです。「息子を与えてほしい」と神様に願いました。彼女にとって理解すべき大事な事がありまして、彼女には夫がいまして、彼女を入れて二人奥さんがいたのですね。ハンナは子供を授かっていなかったのですけれど、もう一人の妻は何人か子供がいたのです。そういうわけで彼女も、「どうか私にも子供を、息子を与えてください」と懸命に神様に祈っていたのです。それは何人かの子供、ただの子供ではなくて、本物の子供が欲しいと神様に願っていたのです。神様によって用いられるような人物を与えて下さいと願っていたのです。もう一人の妻には何人か子供がいましたが、それはただの、普通の子供たちでした。他の子供たちと何ら変わりなかったのです。そして子供のいる方の妻が、子供を授かっていない妻、ハンナをしょっちゅういじめていたのですね。

サムエル記上1章によると、このもう一人の妻ベニンナが、ハンナにとって敵となったと書かれています。教会にも息子たち、子供たちがいるように見えます。教会は新しい人たちにバプテスマを授けて、そういった人たちを神の子として教会に連れてくるわけです。しかし、そういった魂が神様の霊によってもたらされているのでなければ、その人たちは真の教会員にとって敵となってしまいます。もし彼らが三天使の使命によって清められていないのであるならば、そういった人たちが私たちの迫害者に回って、私たちを牢屋に入れるという、そういった業に加担するようになってしまいます。彼らは教会に行って、教会の子供のように見えながら、実はその人たちの父はサタンになっているわけです。そういうわけでバプテスマのヨハネも、当時の教会の指導者であるラビや祭司たちに向かって「マムシの子らよ」、と言ったわけです。なぜなら彼らは回心していなかったからです。


サムエルの経験 デイビット・カン説教より 第3回

2016年10月06日 | 日記

真の回心の経験は教会でまれにしか見られないのではないでしょうか。つまり、世界中、神様のみ言葉の飢饉に苦しんでいるのです。

初めにサムエル記上を開いてください、サムエル記上から興味深い所を見ていきたいと思います。初めにサムエル記上3章の1節をご覧ください。お読みします。

「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」。

 当時エリという人が大祭司として国を治めていたころ、「主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」という時代でした。神様の民が、本当の神様の言葉というのを知らなかったのです。大祭司も他の祭司たちもよく分かっていませんでした。彼らは神様の言葉を理解できず、神様の声を聞くことも出来ないでいました。神様のみ言葉の教えというのはもう、目の前にいくらでもあったにもかかわらず、霊的に盲目な状態であったのですね。人をねたむ、貪る、そういった思いを彼らは持っていました。祭司たちも実に荒廃していたのです。特に大祭司エリの息子たち、ホフニとピネハスは腐敗していました。彼らは本当に堕落していて、聖所の中で女性と関係を持つという、そういったことを大胆にもやっていたのですね。神様に献げられたもの、献金とかそういったものも彼らは平気で盗みました。民が捧げ物として持ってくるいけにえの献げ物、動物がいました。それを屠って焼いて、肉にするわけですけれど、彼らはその中で一番良い所を自分のために取って、肉を焼く前に生で彼らは食べていました。まだ肉から血が滴っている状態のまま、それを食べたのですね。彼らの味覚も本当に堕落していました。

現在も多くの人たちが生肉を食べますよね。お魚、刺身だけではなくて、豚肉とか牛肉を生で食べる人たちがいます。そういった人たちを見たことありますか?日本では食べませんか。魚だけでなく豚肉とか牛肉も生で食べますか?何か最近生肉を食べて死亡事故がありましたよね。韓国では、非常に豪華な食べ放題のレストランなどに行ったりしますと、そこに大きな皿がありまして、刺身のように生の牛肉が切られておいてあります。皿の上に血が滴っているのが見えます。そういう肉が大好きな人たちがいるのです。その皿は特に人気があって、早く空になります。

サムエルの幼かったころの祭司たちも、同じようなことをしていたのです。もう彼らの知性も鈍くなってしまって、霊的に盲目、目の見えない状態でした。その結果、神様の声が聞こえない状態になっていました。そういう時に神様は預言者を必要となさるのです。純潔な、空っぽの器を神様は必要となさいます。そういった器を、神様は祭司の中から見つけることは出来ませんでした。レビ人、ラビ、教師たちの中からも見つけることが出来ませんでした。本当にひどい、ひどい状態だったのです。その結果、聖霊が欠乏しているという状態に陥りました。