金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』が2月の頭に放送されていて、もちろん予約録画したんだけれど何故か結果は所さんの番組が録れていた。観る気になっている時に観られないのはカレーだと思って帰ったら晩ご飯が刺身だったみたいな心持がして収まりが悪いので『ポニョ』をDVDで借りに。そしてそれだけだとなんなのでその他も。
前評判通り、主人公のウォーリーのアニメーションが素晴らしく可愛らしく愛らしい。卑怯なほどに。ついでにウォーリーの唯一の友達?である、地球上で唯一?のゴキブリの動きまで素晴らしくアニメ的で可愛らしく面白い。ゴキブリなのに。目指すモノも表現方法も違うのにフルアニメーションという点では『ポニョ』も『WALL-E』も非常に最先端。よく出来たアニメには科白すら必要無いことを教えてくれる。いや科白はあるけど。『ポニョ』とは違う眼福。
面白かったのは今作のディストピア像。地球の環境が悪くなったから、良くなるまで宇宙に居ようという少し『宇宙戦艦ヤマト』ちっく設定で、人類は住環境が整った巨大な母船に乗り込んで700年間宇宙で生活をしていた。その間人間は移動する椅子に乗って生活し、ロボットたちが全ての世話を妬いてくれた(管理された)おかげで他人と直接コミュニケーションを取らなくなり、肉体は肥満体になり運動機能も退化してしまったという描写。
ディストピアに関わらず、SF的な未来人の描写は『スタートレック』のカーク艦長のようなスマートな人たち(カーク船長役のウィリアム・シャトナーは見る影も無く太ってしまったけど)という描写が多いのに、今作の未来の人類は何不自由ない生活の結果として、全員モニター付の移動する椅子に一日中座っていた結果として徐々に肥満化し、退化してしまっている。誰一人痩せていなくて、皆太ってる未来がディストピアってユニーク。
もちろんこれは高度大衆消費社会誕生以来のカウチポテト族(死語)から続くテレビやPCモニタの前に座って娯楽を享受しているだけの人たち(ぼくを含む)がモチーフになっているんだろうし、それを揶揄したのが何でも出来るモニター付の椅子に一日中座って生活する未来人。そんな人類と外でコツコツ仕事をし、イヴを追いかけてどんどん積極的に行動を起こして、成し遂げてしまうウォーリーとの対比が気持ち良い。人類を救うのもロボットだし。
太ってしまって、運動能力も退化し、何事にも消極的になってしまった。でも人類はそれに不満は無いというディストピアってそれまでのディストピア描写と比べて、科学的な推論に基づく最悪な未来予想なSFというよりは現代的な問題意識の反映、提起くらいのノリ。感情の発露が悪、読書が悪、記録することが悪、みたいな捻った設定じゃなくて、現代人の生活自体を皮肉ったディストピア。でもそんなに本気でそういうことを言いたい訳ではなさそう。
気になったのがロボットの扱い方。ウォーリーやヒロインのイヴ、壊れてしまったポンコツロボットたちは愛嬌のある善玉として描かれていて破壊の対象から逃れているんだけれど、そうではないシステムに従順で正常なロボットたちは冷徹な悪玉として描かれていて彼らを捉えようとするとイヴとかに破壊されてしまう。悪の親玉?である自動航行装置ロボットのオートも大統領に権限を委任されて人間の為に管理してただけで別に悪意は無いのだし。なのでちょっと違和感。
あとラスト。オートの強力な電気ショックによって電子回路を破壊されてしまったウォーリーをイヴが地球に帰って真っ先に直すんだけど、光学部品とかならまだしも心臓部っぽい電子回路まで逝かれてしまったウォーリーは当初は記憶?を失くして、愛嬌の無い単なるロボットになっちゃう。戻っちゃう。普通に考えたら記憶とか戻りそうもないし、悲しいけど映画的には単なるロボットになっちゃった方が現実的だし、完成度も高まったように思う。『ミリオンダラー・ベイビー』っぽいけど。
でももちろん映画の結末の方が圧倒的に正しい。物語の山を作るためには阻むものが必要なわけで敵としてのロボットは有意だと思うし、ウォーリーは元の記憶を取り戻して、人間と共に生きていくのは元よりイヴや仲間と仲良く暮らすっていうエンディングの方が誰もが喜ぶエンディングだとも思う。そして何より結果としてすごく面白い冒険譚になっていてさすがアカデミー賞アニメ部門の作品賞。アニメーション自体や演出は凄いけど物語を志向していない『ポニョ』が取れなかったのは当然と思う。
ホントすごい完成度。アニメーションとして素晴らしいだけじゃなくて、アニメーションの演出力が見応えがあるし、物語としても十分な強度がある。おまけに過去作品や他の映画のパロディ(「ツァラストラはかく語りき」をBGMに艦長が初めて直立に立ち上がるという『2001年 宇宙の旅』の猿のパロディしか分からなかったけど)までやっちゃう。エンドロールの人類が新たな歴史を作っていく演出も素敵。ドット絵の表現も。
前評判通り、主人公のウォーリーのアニメーションが素晴らしく可愛らしく愛らしい。卑怯なほどに。ついでにウォーリーの唯一の友達?である、地球上で唯一?のゴキブリの動きまで素晴らしくアニメ的で可愛らしく面白い。ゴキブリなのに。目指すモノも表現方法も違うのにフルアニメーションという点では『ポニョ』も『WALL-E』も非常に最先端。よく出来たアニメには科白すら必要無いことを教えてくれる。いや科白はあるけど。『ポニョ』とは違う眼福。
面白かったのは今作のディストピア像。地球の環境が悪くなったから、良くなるまで宇宙に居ようという少し『宇宙戦艦ヤマト』ちっく設定で、人類は住環境が整った巨大な母船に乗り込んで700年間宇宙で生活をしていた。その間人間は移動する椅子に乗って生活し、ロボットたちが全ての世話を妬いてくれた(管理された)おかげで他人と直接コミュニケーションを取らなくなり、肉体は肥満体になり運動機能も退化してしまったという描写。
ディストピアに関わらず、SF的な未来人の描写は『スタートレック』のカーク艦長のようなスマートな人たち(カーク船長役のウィリアム・シャトナーは見る影も無く太ってしまったけど)という描写が多いのに、今作の未来の人類は何不自由ない生活の結果として、全員モニター付の移動する椅子に一日中座っていた結果として徐々に肥満化し、退化してしまっている。誰一人痩せていなくて、皆太ってる未来がディストピアってユニーク。
もちろんこれは高度大衆消費社会誕生以来のカウチポテト族(死語)から続くテレビやPCモニタの前に座って娯楽を享受しているだけの人たち(ぼくを含む)がモチーフになっているんだろうし、それを揶揄したのが何でも出来るモニター付の椅子に一日中座って生活する未来人。そんな人類と外でコツコツ仕事をし、イヴを追いかけてどんどん積極的に行動を起こして、成し遂げてしまうウォーリーとの対比が気持ち良い。人類を救うのもロボットだし。
太ってしまって、運動能力も退化し、何事にも消極的になってしまった。でも人類はそれに不満は無いというディストピアってそれまでのディストピア描写と比べて、科学的な推論に基づく最悪な未来予想なSFというよりは現代的な問題意識の反映、提起くらいのノリ。感情の発露が悪、読書が悪、記録することが悪、みたいな捻った設定じゃなくて、現代人の生活自体を皮肉ったディストピア。でもそんなに本気でそういうことを言いたい訳ではなさそう。
気になったのがロボットの扱い方。ウォーリーやヒロインのイヴ、壊れてしまったポンコツロボットたちは愛嬌のある善玉として描かれていて破壊の対象から逃れているんだけれど、そうではないシステムに従順で正常なロボットたちは冷徹な悪玉として描かれていて彼らを捉えようとするとイヴとかに破壊されてしまう。悪の親玉?である自動航行装置ロボットのオートも大統領に権限を委任されて人間の為に管理してただけで別に悪意は無いのだし。なのでちょっと違和感。
あとラスト。オートの強力な電気ショックによって電子回路を破壊されてしまったウォーリーをイヴが地球に帰って真っ先に直すんだけど、光学部品とかならまだしも心臓部っぽい電子回路まで逝かれてしまったウォーリーは当初は記憶?を失くして、愛嬌の無い単なるロボットになっちゃう。戻っちゃう。普通に考えたら記憶とか戻りそうもないし、悲しいけど映画的には単なるロボットになっちゃった方が現実的だし、完成度も高まったように思う。『ミリオンダラー・ベイビー』っぽいけど。
でももちろん映画の結末の方が圧倒的に正しい。物語の山を作るためには阻むものが必要なわけで敵としてのロボットは有意だと思うし、ウォーリーは元の記憶を取り戻して、人間と共に生きていくのは元よりイヴや仲間と仲良く暮らすっていうエンディングの方が誰もが喜ぶエンディングだとも思う。そして何より結果としてすごく面白い冒険譚になっていてさすがアカデミー賞アニメ部門の作品賞。アニメーション自体や演出は凄いけど物語を志向していない『ポニョ』が取れなかったのは当然と思う。
ホントすごい完成度。アニメーションとして素晴らしいだけじゃなくて、アニメーションの演出力が見応えがあるし、物語としても十分な強度がある。おまけに過去作品や他の映画のパロディ(「ツァラストラはかく語りき」をBGMに艦長が初めて直立に立ち上がるという『2001年 宇宙の旅』の猿のパロディしか分からなかったけど)までやっちゃう。エンドロールの人類が新たな歴史を作っていく演出も素敵。ドット絵の表現も。