NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

曲げられない女

2010-03-12 | 休み
「曲げられない女」(日本テレビ)

今期の地上波テレビドラマで一番面白く観てる。これまでは菅野さんの一貫して搾り出すように言葉を紡ぐようなお芝居は正直苦手だったけれど、今回はそんなことが気にならないくらいに見事な成りきり。少し増した体重とセルフレームと仏頂面で適度に可愛くなく、”っぽさ”がよく出てて面白い。正直コンセプト的にはオアシズの光浦さんでも良い様にも思うけれど、それではきっと駄目なんだろう。

困難な問題や自分自身の性質に起因する問題など実存的な悩みを持つものに対して、菅野さん演じるパラリーガルの荻原が曰く心のシャッターを開けて突然に絶叫しながら説教をするのが物語の見せ場。そしてマイケル・ジャクソンミュージックとダンス。もちろん各人物の魅力がこれらを底上げしてるのは言うまでも無く、他人を取り締まるよりも楽しませるほうが好きな警察官僚、虚言癖気味のお金持ちの奥様、そして無愛想で正義感で動いてばかりのパラリーガル。

もちろん脚本はあくまでテレビ的で臭い部分、リアリティにかける部分は多いけれど、そんなことが気にならないくらいに面白くて、元気が出て、たまに泣けてしまう。ぼくみたいな涙腺が馬鹿になってる人間は毎回泣かされてしまうほどのパワー。いや、台詞は非常に臭いんだけれど、この世界観の中で菅野さんの荻原が言い放つと不思議と気にせず素直に受け入れられてしまう。いや、大変に臭い台詞なんだけれども。冷静に見ると違和感あるけれども。


「私たちに生きる意味なんて必要ありません。私たちに必要なのは生きる意志です。」


という台詞があるけれど、確かに臭い。何言ってるの?というような気がしないでもないけれど、水曜10時のこの枠で菅野さんのお芝居込みでこの台詞を聞くと来ちゃうわけで。他にもこういう台詞を黄門様の印籠のごとくドラマの終盤で炸裂させるカタルシス。明日への活力がデトックスとともに得られてしまうというなんとも効率的なドラマ。3人の関係性は確かにファンタジーでしかないけれど、それでもやっぱり良いなぁっと観てしまう。



というか来週、最終回か。


(追記)
最終回。これまでこのドラマの魅力でもありながら、一番の疑問点であることを登場人物手ずから主人公の荻原に指摘する、突きつける。少し俯瞰してみれば曲げられないことは必ずしも良いこととは言えず、荻原は所謂”痛い”人でしかない。荻原のおせっかいや強情によって周りの人間の人生が狂ってしまったという指摘に荻原はひるむ。けれど荻原は印籠のごときシャッターを開いて反論をするのだ。

ある種居直りのような反論。けれどこれはこの荻原というキャラクター像の本質にかかわる、アイデンティティだからこそ反論する。それはつまりはドラマのテーマであるから。周りの人間が幸せになって欲しいということからの行動であり、現実に自分も回りもそのままの一見順風な人生では得られなかったものがあるはずと反論する。そして何よりこういう”痛い”人間で無ければ二人と親友になれなかったのだと明瞭に反証する。

この反論もそうだけれど本当に脚本の遊川和彦さんはあったまいいなぁ。確かに所々かなりご都合主義的な部位は見受けられる。蓮見が家を出る理由や荻原が司法試験を10回目を区切りとするという設定は明らかに最終回のための伏線のための伏線という色合いが強い。正直違和感。他にもそういった点は多いけれど、それを補って余りある質量と熱量。前述の反論もそうだけど、荻原の弁護士になりたい本心や蓮見の啖呵の本心をちゃんと描いたのは凄い。


ラストのシークエンス。荻原の子供、灯役の子役が菅野さんの子供に見えて驚いた。そして蓮見と藍田のカップルというありそうでなかった未来はありそうだったのに良かった。そしてそして何より驚いた、というか笑えたのは能世三姉妹の能世アンナの落ち。いやぁ、面白かった。人生は自分でどうにかできるから面白いだろ、これが一番言いたかったことのよう。まぁもちろん正論でありつつも綺麗事。綺麗事を通す人のドラマだから当然だけれど。