デマ情報をパッチワークしてひとつのストーリーと化した作り話に過ぎない「神話」が世間に流通し出すと何が起こるかという問いは古くから問われてきた。ところが今や世間一般をはるかに越えて世界的規模で流通し出しているのがこれまた「神話」だという事態。そこへさらに「魂のトラブル」=「煽られて発生した不安」を付け加えてますます「自分たちだけの特権的権力」を「安定させるために」に煽動・利用される。「神話・煽られて発生した不安」は今の権力構造を安定させるために意図的に捏造されているに過ぎないことへの問いがあまりにも足りないというほかない。
「自然は発明に対立しない。発明は自然そのものの発見にほかならないから。しかし、自然は神話に対立する。ーーー人間の不幸は、人間の習慣・慣習・産業から由来するのではなく、そこに混在する神話の部分と、神話が人間の感情と作品に導入する偽の無限から由来するのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)
昨日述べた。
それは例えば、「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」なぜあれほど煽情的な情報ばかりがほとんど一方的に行き交うのか、その過程でどのような人々が他の誰を犠牲にしつつどんなふうに大儲けしているのか、そう問うことで始めて見えてくるだろう。
さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「美作国(みまさかのくに)」(現・岡山県北部)に「中参(ちうざん)」と「高野(かうや)」という神がいた。中参(ちうざん)は猿。高野は蛇。猿は山神としての歴史が長い。蛇は稲作農耕社会成立とともに水神として、さらに冬季や塚穴で暮らす時期は山神としても尊崇される。次の説話は「猿神=中参(ちうざん)」とその生贄とに関する。
フレイザーやエリアーデの著作に収められた膨大な資料から見て、最初の生贄が人間だったことはもはや明らか。しかしそのような人身御供の風習は徐々に廃れていった。その理由は十六世紀以降のヨーローパで始めて人間を大切にしようという意識が芽生えてきたからではまったくない。人間という言葉が生まれたと同時に始めて出現したイデオロギーであり、その理由は労働力として有効であるという認識の発生とともに生まれた歴史的過程の一要素である。しかし説話は近代以前のものだ。だから特に「今昔物語」のような善悪の判断をできるだけ排した説話集を覗いてみると、近代以前の世界の一面を垣間見ることができる。ちなみに次の箇所で扱われている当時の美作国(みまさかのくに)について考える場合、半分以上が山間部、三分の一程度が農山村だった頃に出現した説話として想定したいと思う。
年に一度、猿神に生贄を捧げる信仰が残っていた頃、生贄に関し、「国人(くにびと)ノ娘ノ未(いま)ダ不嫁(とづがざる)」、という絶対的条件が定められていた。美作国内の若い女性で処女であること。
「毎年(としごと)ニ一度其祭(それをまつり)ケルニ、生贄(いけにへ)ヲゾ備(そな)ヘケル。其(その)生贄ニハ、国人(くにびと)ノ娘ノ未(いま)ダ不嫁(とづがざる)ヲ立(たて)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.29」岩波書店 一九九六年)
或る時、特に身分が高いというわけではないが、十六、七歳になる美麗な生娘がいた。両親ともに普段からこの女性を愛しく思い大切に育てていた。ほどなく、今年の生贄にその女性を、と指名されることになった。
「其国ニ、何人(なにびと)ナラネドモ、年十六、七許(ばかり)ナル娘ノ形(かた)チ清気(きよげ)ナル、持(もち)タル人有(あり)ケリ。父母(ちちはは)、此(これ)ヲ愛シテ身ニ替(かへ)テ悲(かなし)ク思(おもひ)ケルニ、此(この)娘ノ、彼(かの)生贄ニ被差(さされ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.29」岩波書店 一九九六年)
例年通りの祝祭なので日取りはあらかじめ決定されている。だから女性の死の日から計算すれば残された日数があと何日か逆算することができる。そうなると両親もその娘もともにもはや逆算することしかできない精神状態に陥る。親子ともに泣き暮らすほかない日々が続いた。そんな折、「東(あづま)ノ方(かた)」から少しばかり縁のある者がそこへたまたま立ち寄った。狗山(いぬやま)を専業としている者だ。狗山については既に何度か述べた。
普段から何頭かの犬〔狗〕を飼っておき、訓練し、猟師は山の奥深くに入る。鹿や猪を見つけると、連れて来た猟犬を巧みに操り獲物を咋殺(くひころ)させて生業にする猟法(または猟師)のこと。数日間も深い山間部に入ることが稀でない経験から、山岳地帯で発生する危険に関してはかなりの専門知識を持ち合わせている。
狗山は特定の定住民ではない。しばらく同じ地域で狩猟を行い、また季節や地形など諸条件が変わると別の地域へ移動して生計を立てる非定住民である。この東人(あづまびと)がここへやって来たのも狩猟のためであって他に何らかの用事があったわけではまったくない。ところが一時的に美作国のこの地域で腰を降ろしている間に、例の生贄の話題が耳に入ってきた。そしてその家の前を通りかかったついでに蔀(しとみ)の中をふと覗いてみると、十六、七歳ばかりの若い女性が家具や柱などに寄り掛かりつつ、髪の毛を顔の前までばらばら垂らして泣き臥せっている。東人は気の毒な気がした。そこで一度、この女性の親に会ってみようと考えた。親はいう。「うちの子はこの娘たった一人。大切に思い育ててきたし、気立てもよく愛嬌もありーーー。しかしとうとう生贄に指名されてしまった。私たちが一体、いつどこでどんな悪事を働いたというのでしょう。余りにも悲しい思いで一杯です」。
東人はいう。「一人娘が生贄として目の前で膾(なます)=刺身(さしみ)にされるとは」。そして続ける。「わたしたちが仏神を畏怖し奉るのは仏神がわたしたちを守護して下さると思えばのこと。さらに子どものためを思うからこそ我が身も惜しいと思わない。にもかかわらず、子どもを守ろうとするどころかその親の気持ちを踏みにじり子どもを膾(なます)=刺身(さしみ)にして差し出せと。そしてまた女性の死は既に決定済みとのことのようだ。もう亡くなったも同然というに等しい。それならいっそ、私にその女性を預けては下さるまいか。同じ死ぬなら私が女性の身代わりとなって死ぬのも一つでしょう。身代わりであれば私に女性を託して下さってももはや同じことです。そう苦しまないで頂きたい」。
「仏神モ命ノ為(ため)ニコソ怖(おそろ)シケレ。子ノ為ニコソ身モ惜(をし)ケレ。亦、其(その)君ハ今ハ無(なき)人也。同(おなじ)死(しに)ヲ、其(その)君、我ニ得サセ給ヒテヨ。我、其替(そのかはり)ニ死侍(しにはべり)ナム。其(そこ)ハ、己(おのれ)ニ給フトモ苦シトナ思給(おもひたまひ)ソ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.30」岩波書店 一九九六年)
しかし、どうすればそんなことができるのか。東人はいう。「策略があります。この家の中に私がいると誰にも言わないで下さい。そしてただひたすら精進していますと告げて、注連縄(しめなわ)を張り巡らせておき、策略が上手くいくよう準備の仕上がりを待っていて欲しいのです」。
「只可為様(すべきやう)ノ有(ある)也。此(この)殿ニ有(あり)トテ、人ニ不宣(のたまはず)シテ、只、精進(しやうじん)ストテ、注連(しりくへ)ヲ引(ひき)テ量(はかり)給ベシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.30」岩波書店 一九九六年)
東人は両親の了解を取り付けて女性を妻として娶った。日数を経るうちに妻のもとを去りがたくなってくる。同時に東人は数年来飼育してきた犬のうち特別に優秀な二頭の犬を選び、こっそり山中へ入って猿を捕らえる訓練に打ち込ませた。しばらくすると二頭の犬は猿の姿を見るや瞬時に飛びかかり噛み殺す方法を習得した。東人もまた自分の刀をひときわ磨き上げて準備に当たった。
例祭の日が近づいた。東人は妻にいう。「私がそなたの身代わりに死ぬのは辛いことではない。生きていればいずれは死ぬのだから。ただ辛いのは、そなたと別れることになることだ」。
「我ハ其(そこの)御代(かはり)ニ死侍(しにはべり)ナントス。死(しに)ハ然(さ)ル事ニテ、別レ申シナムズルガ悲(かなし)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)
そして当日。神社から宮司(みやづかさ)を筆頭に祭祀のため大勢の人員が家にやって来た。新調された長櫃(ながひつ)が持ち出され、「この中に生贄を」と家の中へ差し入れられた。長櫃の中には予定通り東人が簡略な衣服と刀剣だけを身に付けて入り、両脇に猟犬を臥せさせ、長櫃の蓋を閉じた。両親は女性を入れたかのように装って長櫃を再び家の前で待っている祭祀の行列に向けて差し出した。大勢の人々は鉾や榊など様々な祭具を手にどよめきながら神社へ向かった。
「新(あたらし)キ長櫃(ながひつ)ヲ持来(もてき)テ、『此(これ)ニ入(いれ)ヨ』ト云(いひ)テ、長櫃ヲ寝屋(ねや)ニ指入(さしいれ)タレバ、男、狩衣(かりぎぬ)袴(はかま)許(ばかり)ヲ着テ、刀ヲ身ニ引副(ひきそへ)テ長櫃ニ入ヌ。此(この)犬二ツヲバ左右(さう)ノ喬(そば)ニ入レ臥(ふ)セツ。祖共(おやども)、女ヲ入(いれ)タル様(やう)ニ思ハセテ取出(とりいだし)タレバ、鉾(ほこ)・榊(さかき)・鈴・鏡ヲ持(もて)ル者、雲ノ如クシテ、前(さき)ヲ追(おひ)ノノシリテ行(ゆき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)
生贄御社(いけにへみやしろ)に到着するとまず祝詞(のつと)が唱えられる。そして神社の垣が開かれ、長櫃を閉じていた紐が解かれ、長櫃は内部へ搬入される。すると宮司らは神前から引き退く。後は猿神の登場を待つばかり。東人は長櫃をほんの僅かばかり削り取って隙間から周囲を覗く。そこには2メートル以上もある巨大な猿が上座に座っている。その左右を縦二列になって百匹ほどの猿が興奮しながら喚き声を上げている。猿神の前にはこれまた巨大な俎(まないた)が置かれていて、さらに酢と塩を混ぜた調味料と酒と塩を混ぜた調味料とが並べられている。鹿をなまで調理する時の用意とまるで違わない。
「男、長櫃ヲ塵許(ちりばかり)キサゲ開(あけ)テ見レバ、長(たけ)七、八尺許(ばかり)ナル猿、横座ニ有リ。歯ハ白(しろく)シテ顔ト尻トハ赤シ。次々ノ左右ニ、猿百許(ばかり)居並(ゐなみ)テ、面ヲ赤ク成(なし)テ、眉(まゆ)ハヲ上(あげ)テ、叫ビノノシル。前ニ、俎(まないた)ニ大(おほき)ナル刀置(おき)タリ。酢塩(すしほ)・酒塩(さかしほ)ナド皆居(すゑ)タリ。人ノ鹿ナドヲ下(おろ)シテ食(くは)ンズル様(やう)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)
やや間があって、巨大な猿が長櫃を開けようとし、他の猿たちもそれを手伝いに立ち上がった。その瞬間、東人は長櫃の中から踊り出て犬どもに「さあ、喰らいつくべしっ!」と繰り返し嗾けた。自分も磨き上げてきた刀を抜き、第一の猿を捕まえて俎(まないた)の上にべたりと延び臥せさせていう。「お前が肉を食うというならこうしてやる。その頸(くび)を切り落として、もう犬の餌だ」。
「汝ガ人ヲ殺シテ肉村(ししむら)ヲ食(くふ)ハ、此(か)ク為(す)ル。シヤ頸(くび)切テ、犬ニ飼(かひ)テン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)
びっくりした猿は激しくまばたきして目に涙を浮かべ両手をさすって許しを乞う。だが東人はさらに畳み掛ける。「お前たちはこれまで何年間も多くの人々を殺しむさぼり喰ってきた。それに代わり今度はお前たちが殺されるわけさ。今こそその時と思え。お前、神であるというのなら、私を殺してみたまえ」。
「汝ガ、多年来(おほくのとしごろ)、多(おほく)ノ人ノ子ヲ噉(くらへ)ルガ替(かはり)ニ、今日殺(ころし)テン。只今ニコソ有(ある)メレ。神ナラバ我ヲ殺セ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)
東人が刀を閃かすや二頭の犬は、周囲に群れ集った百匹ほどの猿に次々と噛みつきかかり喰らい殺し始めた。たまげた猿たちは山中に逃げて隠れてしまった。そのうち一人の宮司に神が憑依して神がかった声を上げて何か言い始めた。「今日からもうこの生贄の儀式は止める。殺したりしない。また、この男性が私をこのように扱ったといってこの男性に危害を加えてはならない。さらに生贄に指名した女性はもちろん、その両親・親族らにも無礼な行為を与えてはならない。だから私を助けてくれ」。
「我レ、今日ヨリ後(のち)永ク此(この)生贄ヲ不得(えじ)。物ノ命ヲ不殺(ころさじ)。亦、此(この)男、我ヲ此(かく)棱(りよう)ジツトテ、其(その)男ヲ錯犯(あやまちをか)ス事無カレ。亦、生贄ノ女ヨリ始(はじめ)テ、其(その)父母(ぶも)・類親(るいしん)ヲ云不可棱(いひりようずべから)ズ。只我ヲ助ケヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)
ところが東人は聞き入れない。「私はどうなってもよい。多く差し出される生贄の代わりに私が死ぬというのだ。共に死ねば終わるだろう」。
「我ハ命不惜(をしからず)。多(おほく)ノ人ノ替(かはり)ニ此(これ)ヲ殺シテン。然(しか)シテ共(とも)ニ無成(なくなり)ナン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)
そこで神が憑依した宮司もまた答えた。「こうして祝詞を申し上げて重大な誓いを述べ上げます」。そう誓言(せいごん)を口にした。もし誓言(せいごん)を破れば切腹しかない。今の世の国会議員待遇とはまるで違うのである。それを聞いて始めて東人は免(ゆる)して差し上げようと了解した。そして帰途についた。東人は無事に家に帰り、待っていた妻と共にずっと夫婦として長く暮らした。女性の両親も言いようもなく喜んだ。
「男ハ家ニ返(かへり)テ、其ノ女ト永ク夫妻(めをうと)トシテ有(あり)ケリ。父母ハ、聟(むこ)ヲ喜ブ事無限(かぎりなし)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)
後日談がある。
「其(その)後、其生贄立(たつ)ル事無(なく)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.33」岩波書店 一九九六年)
説話は「今昔物語」に載るもの。類話が「宇治拾遺物語」にある。後者ではこうなっている。
「その後はかの国に猪(ゐ)・鹿(しか)をなん生贄(いけにへ)にし侍りけるとぞ」(「宇治拾遺物語・巻第十・六・P.240」角川文庫 一九六〇年)
猿神はなるほど人々を生贄として殺害することはもう止めると宣言した。けれども「猪(ゐ)・鹿(しか)」を生贄にしないとはまったく一言も言っていない。さらにこの説話の冒頭にあるように村落共同体に長く伝わる一種の祭祀を変化させたのは狗山である。狗山は通例「猪(ゐ)・鹿(しか)」を狩猟対象として生きている人々である。となると、人身御供は消え失せたけれども、今度はその代理として「猪(ゐ)・鹿(しか)」が捧げ物として置き換えられたと考えることは容易である。いずれが真相かなど誰にもわかりはしない。そしてまた美作国の猿神への生贄は、説話の上では消え失せた。とはいえ、かつては確かにあったし、その名残なら今なお全国各地で見ることができる。柳田國男はいう。
「猿廻しも今では女子供の眼を楽しませるものの一となっているが、昔は立派な一つの儀式であった。かのマンザイなどよりも、もっと厳格な儀式であった。京都では朝廷においても正月の三日にこれを行わせられ、江戸の幕府でも年々その儀式が行われていたのであった。それは何のための儀式であったかというと馬の安全息災を祈るためのものであったのである。その証拠には現在でも厩(うまや)の口に猿が馬を引いているところの札を貼っているのが、あちらこちらで見受けらるるのでも分る。現に播磨(はりま)の石の宝殿社の守札のごとく今なお行われているものが少なくない。『新編武蔵風土記稿』、多摩郡巻之一百八に、日吉山王権現社には古い絵馬があるという記事が出ていて、またその絵馬の図までも書いてある。その絵馬を見ると、馬が狂い出そうとしているのを、猿が引き留めているのである。あれなども猿が馬の守りをするという思想を表わしたものであろうと思う。私の考えではあの猿の話と例の河童(かっぱ)、中国地方ではエンコとはまったく同じものだと思うのであるが、それは少し話が余談にわたるから略するとして、とにかく猿は馬屋の番に使われたものだという事は確実である」(柳田國男「猿廻しの話」『柳田国男全集5・P.510』ちくま文庫 一九八九年)
熊楠はこう述べている。
「かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿(やえん)また得手吉(えてきち)と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留(さる)、歌集の猿丸太夫、降(くだ)って上杉謙信の幼名猿松、前田利常(としつね)の幼名お猿などあるは上世これを族霊(トーテム)とする家族が多かった遺風であろう」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.28」岩波文庫 一九九四年)
見ておくべき生贄の移動について。第一に「村落共同体の構成員」。第二に(1)「消滅」・(2)「他の動物」。第三に「貨幣」(さいせん)。いずれにしても第三の選択肢「貨幣」は「若い女性の膾(なます)=刺身(さしみ)」と等価交換されるに至った。今なお人身売買が可能なのはそういう理由による。しかしまたその間の推移について、次のように貨幣へと置き換えられた瞬間から、それまでの事情は覆い隠されほとんどすっかり忘れ去られてしまうのである。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)
というふうに。
ところでしかし猿神信仰はまた別の側面から、かなり古い起源を持つ信仰の一つとして考えられる。少なくとも仏教輸入以前の倭国にはごく普通にあったのではと思われる。その点については機会があれば「日本霊異記」や「御伽草子」を通して考えてみたいとおもう。
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