白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・女性「上納神話」解体へ・熊楠による熊野案内/猿への供物3(再録)

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「『哲学が何の役に立つのか』と問い尋ねる者に対しては、こう答えるべきである。自由な人間のイマージュを立ち上げること、その力能〔=権力〕を安定させるために神話と魂のトラブルを必要とする一切の力に廃棄通告すること、この程度のことにでも関心を抱いている者が他にいるのか、と」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)

 

それは例えば、「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」なぜあれほど煽情的な情報ばかりがほとんど一方的に行き交うのか、その過程でどのような人々が他の誰を犠牲にしつつどんなふうに大儲けしているのか、そう問うことで始めて見えてくるだろう。

 

「最初の哲学者は、自然主義者である。最初の哲学者は、神々について述べるのではなく、自然について述べるのである。最初の哲学者が、自然から積極性を奪い取るような神話を哲学に導入しないことを条件に」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.179」河出文庫 二〇〇七年)

 

さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。続き。

 

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「近江国(あふみのくに)野洲郡(やすのこほり)」は今の滋賀県野洲市。「御上(みかみ)の嶺(たけ)」は野洲市内の三上山(みかみやま)を指す。しかし説話では「三上(みかみ)神社」の神は「陁我(たが)の大神」と書かれている。だが「陁我(たが)の大神」を祭るのは滋賀県犬上(いぬがみ)郡多賀(たが)町にある「多賀(たが)大社」である。しかし説話の意図を考慮すれば、この違いはほとんど何らの関係もない。さらにそもそも猿にしても狗にしてもその文字はどちらも「けものへん」を用いて書かれている。両者いずれにしても獣(けもの)として前提されている。信仰の違いは言語を通して価値観の違いとなり、さらにその実践を通して可視化され人々の目の前に出現する。ゆえに仏教の布教目的の色彩が濃い「日本霊異記」編集に当たっては、両者の違いはなおさらどうでもよくなるのである。問題はこの説話が「夢」の中の出来事から始まっている点にある。だから最初に異郷訪問があり、異郷から帰還した後、改めて次の展開へ進むという形式を踏んでいる点に即して述べたい。

宝亀年間(七七〇年〜七八〇年)。三上神社でも多賀大社でもどちらでも構わないが、その辺(ほとり)にお堂があった。お堂に住む僧の名は恵勝(えしよう)といい、奈良の南都七大寺の一つ・大安寺(だいあんじ)からやって来ていた。或る日、恵勝の夢に人一人が現われて「わたしのためにお経を読んで下さい」と言った。驚いて目が覚めた。つくづく不可解なことだと考え込んでしまった。翌日、小さな白い猴が実際に恵勝の目の前までやって来て言う。「この寺に住み着いて、わたしのために法華経を読んで下さい」。

「明くる日、小(ちひさ)き白き猴(さる)、現(げに)に来(きた)りて言はく、『此(こ)の道場に住(とどま)りて、我が為に法華経(ほけきやう)を読め』」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.166」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝は猴に向かって「そなたは誰なのか」と尋ねた。人間の言葉を話すのでただ単なる猴ではないと思ったのだろう。すると白猴は自己紹介し始めた。「私はもともと東天竺国(とうてんぢくこく)の大王でした。国内には多くの修行僧がいるが、修行僧に仕える従者は千人以上。けれども従者は僧の従者ということなので農耕に励む者ばかりとは限らず、農耕への従事が怠りがちになる者も少なくない。そこで私は従者の人数制限を設けることにして従者削減の法令を発したのです。だからといって、仏教修行を制限したわけではけっしてありません。ところがなぜか、おそらく従者削減のせいなのでしょう、私が死んで生まれ変わってみるとかつてのような人間ではなく猴の身になっており、今やこの社の猴神というわけです。でも猴はもうこりごり。今は脱猴を目指しています。そんなわけで私のさらなる転生のために法華経を読んで頂きたいと願い出ました」。

「我は東天竺国(とうてんぢくこく)の大王なり。彼(そ)の国に修行の僧の従者(ともびと)数千所(どころ)有り。農業(たつくるわざ)を怠る。数千とは千余数の数千なり。因(よ)りて我制(とど)めて『従者多きこと莫(なか)れ』と言ひき。其の時我は、従(とも)の衆多(あまた)なるを禁(とど)めて、道を修することを妨げずありき。道を修することを禁(とど)めずと雖(いへど)も、従者を妨ぐるに因りて、罪報と成る。猶(なほ)し、後生(ごしやう)の此の獼猴(さる)の身を受けて、此の社の神と成る。故(ゆゑ)に斯(こ)の身を脱(まぬか)れむが為に、此の堂に居住(すまひ)せり。我が為に法華経を読め」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.166~167」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝はいう。「そういうことなら読んで差し上げよう。では供養のための供物(そなえもの)を用意して下さい」。猴は答える。「そもそも猴と化した私にはお供えに値するであろう供物(そなえもの)なんて持っていません」。和尚は少し考え、「この村では大量の籾(もみ)の収穫があります。それを供養の品とすればいいでしょう。そうしたらお経を読んであげましょう」、と言った。ところが猴は反論する。恵勝さん、それですがーーー。「この村の籾(もみ)はそもそも朝廷から私が賜ったものです。にもかかわらず、神社の役人が手前勝手に自分の所有物と化して占領してしまいました。私には手をつけさせないようにしたのです。従って籾はもはや私の自由になりません」。

「朝廷(みかど)の臣、我に賜(たま)ふ。而(しか)るを典(かど)れる主有りて、己(おのれ)が物と念(おも)ひて、我に免(ゆる)さず。我恣(ほしきまま)に用ゐず」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.167」講談社学術文庫 一九八〇年)

とはいってもそれは神社の管理者と猴との間で論争されるべき議題。恵勝(ゑしやう)はまた立場が異なる。なので言うほかない。「供物(そなえもの)が用意できないというのに、ではどうしてお経を読んで差し上げることができましょう」。

「供養無くは、何(なに)すれぞ経を読み奉らむ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.167」講談社学術文庫 一九八〇年)

猴は答えていう。「そうことでしたら仕方がありません。聞けば浅井郡(あさゐのこほり)に大勢の僧がいて、しばらくすると皆で六巻抄(ろくくわんぜう)を読み上げる準備が進んでいるそうです。私はそちらの側の信者としてその講の中へ入ることにしようかと」。なお、「六巻抄(ろくくわんぜう)」は仏教者の戒律〔生活規律〕を述べた著作の一つ・「四分律刪繁補闕行事鈔(しぶんりつさくはんほけつぎょうじしょう)」のことを指し、唐の道宣の撰により六巻に編纂されたもの。

「然らば、浅井郡(あさゐのこほり)に諸(もろもろ)の比丘(びく)有りて、六巻抄(ろくくわんぜう)を読まむとするが故に、我其の知識に入(い)らむ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝は「檀越(だにをち)の山階寺(やましなでら)の満預(まんよ)と曰(い)ふ大法師(だいほふし)」の所へ行ってこのやり取りについて説明した。「檀越(だにをち)」は檀家のことだがここでは寺院経営のための大手スポンサー。「山階寺(やましなでら)」は奈良の興福寺の旧称。スポンサーとしては巨大。恵勝はそこの実力者・満預(まんよ)に事情を説明するものの、満預は頭から受け付けない。そしていう。「それは猴が言った言葉です。私は信じないし、申し出を受理することもないし、聞こうとも思いません」。

「此(こ)は猴(さる)の語なり。我は信(まこと)とせじ、受けじ、聴(ゆる)さじ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

これまた余りにもそっけない回答である。そこで恵勝は仕方なく自分だけでも六巻抄を読もうと四苦八苦していると、お堂で使っている童子や修行者らが慌てふためきつつ恵勝のところへ駆け込んで来ていう。「小さな白い猴がお堂の上に乗っています。振り返ってみると九間の大堂が倒壊して粉々になっていて、どこもかしかも木っ端微塵。さらに仏像はどれも破壊され、他のすべての僧坊も倒壊しております」。

「小き白猴、堂の上に居り、纔(ひただ)見れば、九間の大堂仆(たふ)るること微塵(みぢん)の如し。皆悉(ことごとく)に折れ摧(くだ)けぬ。仏像皆破(やぶ)れ、僧坊も皆仆(たふ)れたり」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

それを見た恵勝はただちに満預と相談した。結果、倒壊した七間の堂を再建し、「陁我(たが)の大神と題名(だいみやう)せる猴(さる)」の言葉を信じることにし、その白猴を同じ信徒集団の中に入れた。さらに白猴が申し出ていたお経も読んでやった。するとその後、僧たちの願いである「六巻抄」講読・講義の間、災難一つ発生することはなかった。

「檀越僧に曰(い)ひて、更に七間の堂を作る。彼(そ)の陁我(たが)の大神と題名(だいみやう)せる猴(さる)の語を信じ、同じく知識に入れて、願へる所の六巻抄(ろくくわんぜう)を読み、幷(しかしなが)ら大神の願ふ所を成しき。然して後、願の了(をは)るに至るまで、都(かつ)て障難無かりき」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171~172」講談社学術文庫 一九八〇年)

猴の願いは切実だ。その申し出を蹴った寺院の側に多大な存在を与える。大堂や仏像、僧侶らの住居もことごとく粉々に倒壊させる。要するにお経を読んでほしいという猴の切実この上ない願いよりもただ単なる「箱もの」の側が大事だというのか、という重大な問いかけを含んでいる。奈良時代すでに巨額の資金を持つ大寺と、一方、山岳地帯を拠点に全国各地を回遊修行する聖(ひじり)たちの経済的格差は歴然としていた。

しかし一体、猴はどこから来たのか。山から来た。というより、もともと山の中にいた。仏教説話なので「東天竺国(とうてんぢくこく)」=「東インド」の王だったということになってはいても、さらにそれが生まれ変わったとしてもなおただ単なる猴ではなく「山神としての猴」へ転化している。一度にごく普通のありふれた猿になるわけではまったくない。それ以前の神の位置と比較すればなるほど異なる。とはいえ、あくまで神としての位置付けは変わっていない。とりわけ日本のような地理的条件が土台になっている諸地域では季節・気象のほんの僅かな差異によって、出てくる結果はおそるべき違いとなって奔出するのである。

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫 一九八九年)

また、高いところを生活圏とする動植物について、人間は古代から畏怖の念を抱いてきた点も忘れてはならない。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.356~357」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さらに。

「《動物より下へ》。ーーー人間が笑いころげて嘶(いなな)くとき、その下品さではどんな動物もかなわない」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第九章・五五三・P.444」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ニーチェが考える「猿」とは。

「猿どもは、人間が彼らから由来しうるにしては、あまりにも気だてがよすぎる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二九六・P.170」ちくま学芸文庫 一九九四年」)

説話に戻るとこう言える。転倒したのは猿の側ではない。人間の側が転倒して始めて猿も治るべきところを得たと。ところが昨今の異常気象は地球規模で生態系に破壊的打撃を与え続けている。だがそもそも、昨今の異常気象多発の要因をわんさと生産して自ら墓穴を掘り下げ、ますます墓穴を増産しているのは人間社会の連関関係総体である。今後なお悪条件の側の多産性ばかりが加速的に増していきそうだ。今の日本では少なくとも過半数の人間は、なぜ、それほどまでして共食いならぬ共死にしたいと欲しているのだろうか。


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