白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・女性「上納神話」解体へ・熊楠による熊野案内/猿への供物2(再録)

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「言語の起源に対しては、また、火と最初の金属の制度に対しては、その原理において神話的な王国・富・所有が接合される。青銅と鉄の使用に対しては、戦争の発展が接合される。芸術と産業の発明に対しては、奢侈と熱狂が接合される。人類の不幸を作り出す出来事は、そんな出来事を可能にする神話と切り離せない」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)

 

 

さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。

 

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

僧といっても様々な形態があった頃。「仏ノ道」を「行(おこな)ヒ行(ありく)僧」がいた。回国修行に身を投じる「聖(ひじり)」である。「飛騨国(ひだのくに)」を通過中、山中深く入っていったところ、道に迷ってしまう。木の葉は渦高く積もり道らしき道もない。もはや行き止まりかと思われたその時、目の前に巨大な滝が立ちはだかっている。返ろうと思うがやって来た道もすでに区別できない。周囲は切り立った崖が聳え立っていて、その高さは500メートル以上はあるだろう。よじ登ろうにも手立てがない。その時、背後から蓑笠姿で荷物を背負った男性がやって来るのが見えた。声をかけて道を尋ねようとしたが逆に聖の側がいかがわしいような目で見られてしまう。男性は無言でそそくさと歩いて滝の前まで行ったと思うとそのまま滝の中へ踊り込んで消え失せてしまった。見ていた聖は、今のは鬼に違いないと怖気付いた。けれども、どのみち鬼に喰われてしまうようならその前に自分から身を投げて、後生を祈るほかないと思い切り、男性が消えていった巨大な滝の中へ聖自ら身を投げた。

てっきり溺死するものと考えていたところ死にはせず、滝は簾のようになっており、すうっと通り抜けたところ、その内部に道が続いている。道は山の下をくぐり抜けるように細く奥へと向かっているらしい。そのまま歩を進めると道は終わり、そこには大きな人郷(ひとざと)が広がっていた。人家もたくさん見える。

「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店 一九九六年)

聖はなんとか人郷に出ることができたと思いさらに歩こうとしたところ、さきほど見かけた荷物を背負った蓑笠姿の男性がいる。聖の姿を認めるやこちらへ向かって駆けてきた。その後ろからやや遅れて浅葱色の上下(かみしも)を着た年配男性が歩いてくる。浅葱色の上下を着た年配男性は聖はつかまえて「さあ、こちらへどうぞ」と引き連れて行こうとする。それを見た人々が一斉に群がり始め、同じように「さあ、こちらへ」と周囲と取り囲むような格好になった。そこで「郡殿(こほりのとの)」(郡司)に決めてもらおうではないかということになったようで、郡司の屋敷へ連れて行かれた。屋敷に着くと、由緒正しそうな老人が出てきた。荷物を背負っていた男性がその老人に向かって述べる。「この人物は私が日本(にほん)国から連れて参りました。そしてこの方に差し上げたわけです」、と浅葱色の上下を着た年配者を指さした。

「此ハ、己(おのれ)ガ日本(にほん)国ヨリ将詣来(ゐてまうでき)テ、此(この)人ニ給(た)ビタル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店 一九九六年)

郡司はいう。「そういうことなら、浅葱色の上下を来た者が得ると考えてよいだろう」。するとたちまちその年配男性が聖を自分の家へ連れて行こうとする。聖はわけがわからないと思いはするものの成り行きに任せて付いて行くほかない。年配男性はそれを察していう。「そんなに不審がられるな。ここは大変豊かで何ら不自由のない桃源郷のようなところですから」。

「不心得(こころえず)ナ思不給(おもひたまひ)ソ。此(ここ)ハ糸楽(いとたのし)キ世界也。思フ事モ無(なく)テ、豊(ゆたか)ニテ有(あら)セ奉(たてまつら)ム為(ずる)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.35」岩波書店 一九九六年)

ほどなく男性の家に着いた。さっきの郡司の屋敷ほどではないが、まずまずしかるべくしつらえられた家屋のようだ。聖が到着したと知ると家の者らはみんなはしゃぎだして楽しそうな雰囲気に包まれた。たちまち盛大なご馳走が整えられ「さあ、召し上がって下さい」と差し出された。鳥や魚など肉類もある。修行者として肉食はタブーなのだが断りきれなくなった。その一つにこの家の一人娘との結婚が約束されたことが上げられる。さらにもし盛大なもてなしを拒否しようものなら理由も何もわからないまま殺されるかもという不安がよぎる。考えた上で一旦男性の勧めに従ってみることにした。また、修行者だとはいえ、勧められるがまま髪の毛も生やすことになった。宴席をともにすることは村落共同体の仲間入りを意味する。断るわけにもいかず鳥や魚など肉類も口にしてみた。どうなることかと思って心配だったがとても美味しい。すっかり平らげてしまった。

夜になった。新婚の初夜である。登場した娘は二十歳くらいの美女。考えてもいなかったが衣裳もたいへん似合っていてうるわしい。家の主人はいう。「娘です。差し上げましょう。今日からは私ども親が愛しく可愛がってきたように大切にしてやってほしいものです。一人娘なのでこの気持ちを察して頂きたい」。そう言うと主人は部屋を出ていった。聖は言われるがまま女性と夜を共にした。

「夜ニ入(いり)テ、年二十許(はたちばかり)ナル女ノ、形・有様美麗(びれい)ナルガ能(よく)装束(しやうぞ)キタルヲ、家主押出(おしいだ)シテ、『此(これ)奉ル。今日ヨリハ、我(わが)思フニ不替(かはらず)哀レニ可思(おぼすべき)也。只一人侍ル娘ナレバ、其(その)志ノ程ヲ押量(おしはか)リ可給(たまうべし)』トテ返入(かへりいり)タレバ、僧、云甲斐(いふかひ)無(なく)テ近付(ちかづき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.36」岩波書店 一九九六年)

一緒に暮らしてみると女性はたいへん気立てのいい性格で日に日に情が移ってしまった。聖もまた髪の毛が随分と伸び始め、髻(もとどり)を結うほどになった。さらに特徴的なのは毎日の食卓である。幾らでも出てくる。もっと食べろとどんどん出てくる。食ってばかりの毎日が続く。女性と聖とはすっかり仲の良い夫婦になって既に八ヶ月が過ぎた。その頃から妻の様子にどこか腑に落ちない点が見受けられるようになった。

同じ頃、家の主人のもとに客人がやって来た。何か話し込んでいる。こっそり聞き耳を立ててみると、何のことなのか意味が上手くつかめない。だが、自分の身の上に関係があることはわかる。再び不審感がつのってきた。そこで妻に問いかけてみたが、なぜか頑固に話そうとしない。しかし食事を重ねて聖が肥え太ってくるごとに涙を浮べて愁いを隠しきれずにいる。また他の家々でも派手な饗宴の準備に取りかかり出した様子だ。理由はわからない。聖は思い切って妻を問い詰めてみた。「理由も言わず黙っていられる私の側こそ辛い。だから話してほしい」と。しばらくすると妻は泣く泣くこの国の奇妙な風習について語って聞かせた。「この国には年に一度、人一人を生贄として神に捧げ奉る祭祀があるのです。あなたがここに来られた時、我も我もと一斉に人だかりができたのも、その身代わりとしてあなたを自分のものにしようと人々が群がったからなのです。もし生贄を用意できなければ、どれほど愛しい我が子であっても差し出さないわけにはいきません。もし今、あなたがここにいらっしゃらなかったとしたら、今度は私自身が生贄として神にむさぼり喰われなければならなかったところでした。しかし身代わりとは申せども、あなたはもはやあなたなのでーーー」。妻は涙ながらに言葉を詰まらせる。

「此(この)国ニハ糸(いと)ユユシキ事ノ有(ある)也。此(この)国ニ験(げん)ジ給フ神ノ御(おは)スルガ、人ヲ生贄(いけにへ)ニ食(くふ)也。其御(そこのおは)シ着(つき)タリシ時、我モ得ム我モ得ムト愁(うれ)ヘノノシリシハ、此料(このれう)ニセントテ云(いひ)シ也。年ニ一人ノ人ヲ、廻(めぐ)リ合(あひ)ツツ生贄ヲ出(いだ)スニ、其(その)生贄ヲ求不得(もとめえぬ)時ニハ、悲シト思フ子ナレドモ、其(それ)ヲ生贄ニ出ス也。其(そこの)不御(おはせざら)マシカバ、此(この)身コソハ出(いで)テ神ニ被食(くはれ)マシト思ヘバ、只我替(わがかはり)テ出ナント思フ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.37~38」岩波書店 一九九六年)

ところが聖は冷静で、生贄の方法について妻に問う。妻は聞いて知っていることだけだがこう答える。生贄を裸にして俎(まないた)の上にきれいに寝かせ、神殿の瑞垣の中へ押し入れ、入れ終わると里人らはその場を去ることになっていると。だがもしよく肥えていない貧弱な体つきの人間が生贄として運び入れられたような場合、里は不作になり、病気が蔓延し、とても不穏な生活環境に陥ってしまうといいます。だから生贄にはよく食べてよく肥えさせる必要があるのだと。

「然(さ)ニハ非(あら)ズ。生贄ヲバ裸ニ成(なし)テ、俎(まないた)ノ上ニ直(うるはし)ク臥(ふせ)テ、瑞籬(みづかき)ノ内ニ掻入(かきいれ)テ、人ハ皆去(さり)ヌレバ、神ノ造(つくり)テ食(くふ)トナン聞(きく)。痩弊(やせつたな)キ生贄ヲ出(いだ)シツレバ、神ノ荒(あれ)テ、作物(さくもつ)モ不吉(よからず)、人モ病(やみ)、郷(さと)モ不静(しづかならず)トテ、此何度(かくいくたび)ト無(なく)物ヲ食(くは)セテ、食(く)ヒ太ラセント為(する)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.38」岩波書店 一九九六年)

一方で貧弱なものを与える。するともう一方から貧弱なものが与え返される。この点はエリアーデが論じているように世界中の民族共同体の神話の中で、共通に、なおかつ一様に見られるアニミズム的思考である。ニーチェはエリアーデよりも遥かに早くからこの事情を債権者と債務者との関係に置き換えて論じていた。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

外界から襲いかかってくる自然災害に対して、その過酷な暴力を押し沈めるためにはどうすればいいのか。そこで始めて生贄の奉納という宗教的信仰が出現した。迷信に過ぎない。だがそれは習慣化すると肝心の起源は忘れ去られ、迷信は迷信でなくなり、自動的かつ周期的に反復されなければ許されない、何か恐ろしい災難が降りかかってくるに違いないと信じて疑わない《掟》と化する経過を辿るし実際に辿ってきた。

さて、聖が婿入りした家では祭祀の七日前から注連縄を張り巡らせに掛かった。その直前、聖は自分に良策があると妻に言ってひそかに短刀のよく鍛えられたものを用意させて身に付け、周囲の隙を見計らって短刀にさらに磨きをかけていた。

生贄奉納の当日がやって来た。聖に湯を使わせ、由緒正しい装束を身に纏わせ、髪の毛には櫛を入れて艶やかに仕立て上げ、髻を改めて結い直し、鬢を品よく整え、入念な身繕いを終えた。玄関には既に多くの里人が集合し、早くしろと声を荒げて待っている。そして舅(しうと)が馬に乗り、一行はようやく出発した。山中へ入っていく。しばらくして生贄御社(いけにへのみやしろ)へ到着。そこに巨大な「宝倉(ほくら)」がある。「宝倉(ほくら)」は「祠(ほこら)」=「神殿(しんでん)」。

「山ノ中ニ大キナル宝倉(ほくら)有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

いかにも威厳のある瑞籬(みづがき)で囲まれた広い神域。饗宴のための大量の膳が据え並べられていて、集まった人員も数知れない。酒食の宴が終わると舞い遊びが始まる。舞楽も終わるとようやく生贄が呼び出される。

「此(この)男ヲ呼立(よびたて)テ、裸ニ成(なし)、括(くくり)ヲ放(はなた)セテ、『努々不動(はたらかず)シテ、物云(いふ)ナ』ト教ヘテ含(ふくめ)テ、俎(まないた)ノ上ニ臥(ふせ)テ、俎ノ四(よつ)ノ角(すみ)ニ榊(さかき)ヲ立(たて)、注連・木綿(ゆふ)ヲ懸ケ集(あつめ)テ、掻(かき)テ前(さき)ヲ追テ、瑞籬ノ内ニ掻居(かきすゑ)テ、瑞籬ノ戸ヲ引閉(ひきとぢ)テ、人一人モ無(なく)返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

聖は素っ裸にされ髻を結んであった紐を解かれ注意を受ける。「けっして動いてはいけない。何一つ言うこともならない」。そして俎(まないた)の上へ横にされる。俎の四隅には榊が立てられており、注連縄が張られ、木綿(ゆふ)を垂らしてあつらえられている。そして生贄の聖を乗せた俎は人々の手で持ち上げられ儀式に則って瑞垣の内部へ押し入れられる。瑞籬の戸が引き閉じられると里の者らは帰途へ付き、生贄だけを残して誰一人としていなくなった。聖は伸ばした両足の間にこっそり挟み込んできた短刀を隠し持っている。

そのうち、誰も手を触れていないにもかかわらず、第一の祠の戸がぎぎっと音を立てて開いた。続いて他の祠の戸も次々に開いていく。聖はやや恐怖を覚え始めた。見ていると祠の間から人間と同じくらいの大きさの猿が出できた。第一の祠に向かって何か喚き声を上げる。すると第一の祠に掛けられた簾を掻き上げて何者かが出てくる。よく見ると猿だ。しかしこの猿は大型で銀の延板を並べ立てたような歯を光らせながら威圧感を放ちつつ歩み出てきた。

「大キサ人計(ばかり)ノ猿、宝倉ノ喬(そば)ノ方ヨリ出来(いでき)テ、一ノ宝倉ニ向(むかひ)テカカメケバ、一ノ宝倉ノ簾(すだれ)ヲ掻開(かきあけ)テ出(いづ)ル者有(あり)。見レバ、此(これ)モ同ジ猿ノ、歯ハ銀(しろかね)ヲ貫(ぬき)タル様(やう)ナル、今少シ大キニ器量(いかめし)キ、歩出(あゆみいで)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

他の猿たちも次々に登場した。大量に出てくる。大型の猿は最初に出てきた猿に向かって何か言う。すると聖が横にされている俎に近づき、用意された箸と刀とを手に取り生贄に向けて斬り降そうとした。瞬間、聖は股の間に挟んでおいた短刀を手に持ち直すやいきなり飛び起き走り出し第一の祠にいる猿に踊りかかった。驚いた猿はのけぞり倒れる。聖は猿をすぐに起こさず床に押し付け問いただす。「お前、神か」。猿はびっくり慄いてしまい、ただひたすら両手を擦り合わせて許しを乞う。他の猿たちはそれを見るや一匹残らず逃げ散って木に登り、喚き声を上げているばかり。

「此ノ猿、生贄ノ方様(かたざま)ニ歩ミ寄来(よりき)テ、置(おき)タル莫箸(まなばし)・刀ヲ取テ、生贄ニ向(むかひ)て切(きら)ント為(する)程ニ、此(この)生贄ノ男、胯ニ夾(はさみ)タル刀ヲ取(とる)ママニ、俄(にはか)ニ起走(おきはしり)テ、一ノ宝倉ノ猿ニ懸(かか)レバ、猿周(あわて)テ仰様(のけざま)ニ倒(たふれ)タルニ、男、ヤガテ不起(おこさず)シテ、押懸(おしかか)リテ踏(ふま)ヘテ、刀ヲバ未(いま)ダ不指宛(さしあて)デ、『己(おのれ)ヤ、神』ト云ヘバ、猿、手ヲ摺(する)。異(こと)猿共(ども)、此(これ)ヲ見テ、一ツモ無(なく)逃去(にげさり)テ、木ニ登(のぼり)テカカメキ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

聖はすぐそばに生えている葛(かづら)の茎を折り取ってこの猿に柱に縛り付けた。そして猿の腹に短刀を差し当てていう。「お前は間違いなく猿だな。それを神だなどと称して里人をたぶらかし、毎年々々生贄を捧げさせてむさぼり喰らう。甚だしく酷な話ではないか。さらに聞くが、お前の第二、第三の御子とやら、寸毫の狂いもなくこの場に召し出すべし。でないと突き殺す。神だというのなら刀の刃は立たず刺さりもしないはず。その腹で試してみようか」。

「己(おのれ)ハ猿ニコソハ有(あり)ケレ。神ト云(いふ)虚名乗(そらなのり)ヲシテ、年々(としどし)人ヲ噉(くら)ハムハ極(いみじ)キ事ニハ非(あら)ズヤ。其(そこの)二、三ノ御子(みこ)ト云(いひ)ツル猿、慥(たしか)ニ召出(めしいだ)セ。不然(さらず)ハ突殺(つきころし)テン。神ナラバヨモ刀モ立(たた)ジヤ。腹ニ突立(つきた)テ試(こころみ)ン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

そう言ってほんの僅かに短刀で腹の肉を抉り出す身振りをしてみた。猿は手を摺りながら喚き声を発した。するとそこへ二匹の猿が出できた。それが第二、第三の御子なのだろう。大型の猿を第一の御子=神子と考えるとそうなる。そして最初に姿を現わした猿を入れると計四匹の猿をまとめて主導的な立場にある自称=猿神として考えることができる。聖は最初に出てきた猿に命じて葛を折り取って持ってこさせると四匹まとめて縛り上げた。さらに最初の猿に向けて言った。「お前、私を斬り殺そうとしたな。しかし言うことを聞くというなら命を断つことだけはしようと思わぬ。というのは、事情のわかっていない人々を相手に悪ふざけを仕掛けて趣味の悪い風習を流行らせ、あくどい結果ばかり撒き散らすこれまでの仕業をだな、もう金輪際止めるというのなら、だ。でなければお前の命はもう無い」。

「己(おのれ)、我ヲ切(きら)ントシツレド共(ども)、此(かく)随ハバ命ヲバ不断(たたじ)。今日ヨリ後、案内モ知(しら)ヌ人ノ為ニ祟(たたり)ヲ成シ、不吉(よからぬ)事ヲモ至サバ、其(その)時ニナン、シヤ命(いのち)ハ断(たち)テント為(する)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

聖はしばらく猿たちを木に縛り付けておき、宴席の残火を取って来てすべての祠に火を付けて廻った。炎は天高く燃え上がり、遠く離れた里までも照らし出した。里に戻って物忌に入っていた人々もそれに気づいた。何事かとどの家の中も大騒ぎになった。が、祭祀の常識として物忌に籠っている間(このケースでは三日間)は外に出られない。現場まで駆けつけて何事が起こっているかを確認しようにも出るに出られない。ただ、聖の妻だけは頼まれて短刀の用意を謀ったため、「もしかしたら、あるいは」、と炎を見て思った。

そのうち、聖が無事に帰ってきた。葛の茎で縛り付けた四匹の猿を先頭に立たせている。それを見た里人らは思った。「あの生贄が神〔御子たち〕を縛り付けて追い立てながら里に降りてくるとはどういうことだ。これは神よりも尊い人を誤って生贄として送り出してしまったに違いない。神さえも縛り上げて戻ってくるとは。ややもすれば我ら里人を喰らい尽くしてしまうかも」。

「彼(かの)生贄ノ、御子達(みこたち)ヲ縛(しばり)テ前ニ追立(おひたて)テ来(く)ルハ、何(いか)ナル事ゾ。此(こ)ハ、神ニモ増(まさり)タリケル人ヲ、生贄ニ出(いだ)シタリケルニコソ有ケレ。神ヲダニ此(かく)ス。増(まし)テ、我等ヲバ噉(くらひ)ヤセンズラン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.41」岩波書店 一九九六年)

里人らの大騒ぎを横目に、聖は妻のいる舅の家の門の前に立ち、開けてくれと呼んだ。「開けないとあなたがたの為にならぬと思うが」と。

舅もまた怖いので娘を呼んでいう。「あの方はきっと神よりも驚異的な人に違いない。娘のことが気に入らなかったのだろうか。そなた、娘よ、戸を開けて宥めてきてくれ」。

「此(こ)ハ、極(いみじ)キ神ニモ増(まさり)タリケル人ニコソ有(あり)ケレ。若(もし)、我(わが)子ヲバ悪(あし)トヤ思フラン。和君(わきみ)、門ヲ開(あけ)テ云誘(いひこしら)ヘヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.41」岩波書店 一九九六年)

妻は恐れている父に代わって門をほんの少しばかり開けてみた。聖はその隙間を押し開いた。見ると妻がぼうと立っている。ほとんど裸のままなので妻に命じて狩衣・袴・烏帽子などの装束を持って来させ、素早く着替え、猿たちを家の戸に縛り付けて、さらに武具を背負い、舅を呼んで事情を説明した。「これらは神ではなくて猿です。なのに年々生贄を送り込んで喰い殺させていたとは、迷いごとにも程がある。このような物らは猿丸(さるまろ)と言って、人家に繋いで飼っていれば、馬小屋の番になり、愛玩できてなかなか愛嬌さえあるものを、逆に数年間も生贄を奉納し神として奉り続けてきたとは。実にあきれたものです。私がここにいる限りはもうこのような無茶なことはないと保障できましょう。金輪際、私にお任せ下さい」。

「此(これ)ヲ神ト云(いひ)テ、年毎(としごと)ニ人ヲ食(くは)セケル事、糸奇異(いとあさまし)キ事也。此(これ)ハ猿丸(さるまろ)ト云(いひ)テ、人ノ家ニモ繋(つなぎ)テ飼(かへ)バ、被飼(かはれ)テ人ニノミ被凌(りようぜられ)テ有(ある)者ヲ、案内モ不知(しらず)シテ、此(これ)ニ年来(としごろ)生(いき)タル人ヲ食(くは)セツラン事、極(きはめ)テ愚(おろか)也。己(おのれ)ガ此(ここ)ニ侍ラン限(かぎり)ハ、此(これ)ニ被凌(りようぜらる)ル事有(ある)マジ。只己ニ任セテ見給ヘ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.42」岩波書店 一九九六年)

聖とその家族はようやく納得した。そして一同が次に向かったのは、里で郡司を務めている老人の邸宅である。門を開けさせて、今度は事情を飲み込んだ聖の舅が実状を説明した。舅の言葉に戦慄した郡司はもしや郡司自身が殺されるのではと怯え出した。郡司は「助けてくれ」と嘆願する。そこで舅はいう。「すべて私に任せなさい。そうすればもう二度とこのような陰惨な風習が復活することはないでしょう」。聖はその場を見た猿たちに向かって重ねていう。「よし、お前さんらを殺すようなことはしない。だがもし今後、またこの辺りに出現して悪さしようものなら、今度こそ必ず射殺すほかない」。

「吉々(よしよし)、己(おのれ)ガ命ヲバ不断(たたじ)。此(これ)ヨリ後、若(もし)此辺(このわたり)ニ見エテ、人ノ為ニ悪(あし)キ事ヲ至サバ、其(その)時ニ必ズ射殺シテントスルゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.43」岩波書店 一九九六年)

そうして郷人(さとびと)を呼び集め、皆で現場に残されたすべての祠を解体させた。さらに解体させて残った廃材もすべて焼き払った。また、主導的立場を演じていた四匹の猿たち。罰を与えられた。聖の持ち物の一つ・杖で二十回打ち据えて、四匹とも追放した。猿たちは杖で打たれた傷跡という罪滅ぼしの烙印を負って足を引きずりながら山中のどこかへ消え失せ、もう二度と里へ戻ってくることはなかった。

「郷ノ者皆呼集(よびあつめ)テ、彼(かの)社ニ遣(つかはし)テ、残(のこり)タル屋共(やども)皆壊(こほち)集メテ、火ヲ付(つけ)テ焼失(やきうしな)ヒツ。猿ヲバ四乍(よつながら)祓負(はらへおほ)セテ追放(おひはなち)ケリ。片蹇(かたあしなへ)ギツツ山深ク逃入(にげいり)テ、其(その)後敢(あへ)テ不見(みえざり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.43」岩波書店 一九九六年)

この箇所で「片蹇(かたあしなへ)ギツツ山深ク」とある。柳田國男を参照。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫 一九八九年)

さて。ではどうしてこの説話が飛騨国へ伝わったのか。聖はずっと彼方の国へ留まったはず。後日談の箇所を見ると、此方(こなた)から彼方(かなた)へ行くことはできないか、そもそも行く方法がわからない。しかし彼方(かなた)から此方(こなた)へは時々やって来ることがあるらしい。もともそ彼方の国には牛も馬も狗さえもいなかった。けれども猿が時々里に降りてきて悪さをするのでその防止のため狗を彼方へ送り込み、さらに村落共同体成形維持のため、牛や馬も連れて帰っているうちにだんだん繁殖し、子どもたちも増えたという。「飛騨国(ひだのくに)ノ傍(かたはら)」にその境界線あるいは出入口があるとされるが、隣国に当たる信濃国(しなののくに)にも美濃国(みののくに)にもそれらしき場所は見当たらないのだとも。おそらく境界線も出入口ももはやないだろう。なぜなら、かつてはあった先住民の村落・生活様式の異なる民・移動民たちはもうすべて近代から戦後にかけて溶け込んだに違いないからだ。この説話はまだ広い意味での「異人」が列島各地で独自の生活様式を保存しており、その生活様式のもとで暮らしていた限りでのみ、両者が接触する地点で発生したに違いない実話が元になっていると考えられる。なかでも最有力なものは「日本書紀」にある。説話の中にたびたび出てくる蓑笠姿をトレードマークとし、乱暴狼藉の末に共同体から追放され、永遠に世界各地を流浪して歩くことを決定づけられた登場人物。ほかでもないスサノオノミコトである。

「素戔鳴尊、青草(あおくさ)を結束(ゆ)ひて、笠蓑(かさみの)として、宿(やど)を衆神(もろかみたち)に乞(こ)ふ、衆神の曰(い)く、『汝(いまし)は是躬(これみ)の行(しわざ)濁悪(けがらは)しくして、遂(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。如何(いかに)ぞ宿(やどり)を我(われ)に乞(こ)ふ』といひて、遂(つひ)に同(とも)に距(ふせ)く。是(ここ)を以て、風雨(かぜあめ)甚(はなは)だふきふると雖も、留(とま)り休(やす)むこと得(え)ずして、辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。爾(それ)より以来(このかた)、世(よ)、笠蓑を著(き)て、他人(ひと)の屋(や)の内(うち)に入(い)ること諱(い)む。又(また)束草(つかくさ)を負(お)ひて、他人(ひと)の家(いへ)の内に入ること諱む。此(これ)を犯(をか)すこと有(あ)る者(もの)をは、必(なから)ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此(こ)れ、太古(いにしへ)の遺法(のこれるのり)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第七段・P.86」岩波文庫 一九九四年)

昔話として類話は多いが、より一層実在的で、動物ではない人間として見た場合、それは古典としての「日本書紀」を見れば既に出てきているのではと考えられる。そしてそのミソギの聖地はまたしても熊野をおいて他にない。

「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫 一九九四年)

また聖(ひじり)は始めから蓑笠姿で全国を遊行しながら修行者として孤高を貫く存在だ。スサノオノミコトと似たこの条件は、聖にも同時に当てはまる。猿神もまた追放されることによってだけでなく、農耕生活の必需動物たる馬小屋の管理に当たり、さらに気の効く芸能を習得する力を持ってもいるため、改めてその条件を得る。整理してみよう。説話の中で猿は始めから神として君臨した。次に猿としての正体を曝かれた。第三に猿は山へ返っていった。死んだわけではまったくない。死ぬ必要もない。猿は第一に「猿」。第二に「万能の猿神=貨幣」。第三に「山神としての猿」。だから一度は貨幣の位置を占めたことになる。それがさらに変容し、第三の形態を得て、今なお続く山神=猿神信仰として全国各地で生き生きと生き残ってきたと言える。

注記としてこの説話の前の「巻第二十六第七話」では、猿神の正体を曝くのは「狗山(いぬやま)」という移動民だった。そしてそこで妻を得る。第八話でも同様、猿神の正体を曝くのは「聖(ひじり)」という移動民であり、そしてそこで妻を得る。要するにそこで新しい定住民族が出現するという生成変化が演じられる。同種のもの同士では見えないのだ。異種のもの同士が同一線上に置かれるとき始めて、そこに或るものAと別のものBとを照合して見せる場がありありと出現するのであり、その限りで出現する等価性並びに不等価性でなくてはならない。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

というふうに。


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