新自由主義には「何をやっても無駄だ」とか「どんなオルタナティヴも無意味だ」という精神状態に置いておくための装置が備わっている。
「本当に退屈することができた時代、継ぎ目のない刺激のマトリックス(母体)がなかった時代」
一九七〇年代についてそうフィッシャーは捉える。
「生産的な退屈の時間」
当時はあった。覚えている人々も数多いに違いない。
「『うつ病的快楽主義』に関していえば、うつ病とは通常、何ものからも快感を得ることができない、いわゆる快楽消失(アンヘドニア)として語られます。しかし、ティーンエイジャーたちを見ていると、彼らの場合、快楽とはこうも手軽に得られるものであって、快楽の入手可能性自体がうつ病の原因になるというような、ほとんど逆の症候群があるように思えたのです。人の自尊心や満足感、あるいはもっと肝心なこととして、何かへ関与しているという感覚を育てることのできない、快楽の消費者モデルのようなものが、この問題に関わっているのでしょう。その代わりに、小さな快楽の瞬間が連射的にはじけるだけなのです。それによって失われるもののひとつに、ある種の生産的な退屈の時間があります。
七〇年代に退屈がもたらした実存的危機ーーーつまり、本当に退屈することができた時代、継ぎ目のない刺激のマトリックスがなかった時代ーーーそうした退屈の経験可能性とパンクのような現象との間には、大きな関係があったと思います。二十一世紀の文化において低レヴェルの刺激がつねに得られるということによって、そのような退屈はあらかじめ生み出されるのだと思います。つまり、このような形の刺激では、人々を自分自身の外部に連れ出し、自分自身を超えるような形で巻き込むことはできないのです。いわば機能性症状(functional misery)のような形で、人々は自分自身の中に閉じ込められているのです。ある意味ではこのまま続けていくのに十分なほど惨めではありますが、主体として困窮状態に達するほど、あるいは、なぜ自分がこうなってしまったのか、その一般的な社会的原因に疑問を呈するほど追い込まれているわけではないのです。つまり、うつ状態を維持するのにちょうどいいくらいの快楽があるということです。これは、うつ病的快楽主義を捉えるひとつの見方です」(マーク・フィッシャー「アシッド・コミュニズム・P.46」ele-king books 二〇二四年)
難解なことは何一つ言っていない。すべての国民を巨大政財官界が理想とするような「うつ病状態」に保っておくためには「小さな快楽」、「ちょうどいいくらいの快楽」の時間を「継ぎ目」なく与えておくのがいい。新自由主義下では常にこのような操作がとりわけマス-コミや端末を通して機能しているというわけだ。
外出しているにもかかわらずその主体は外と接してはおらず逆に端末と接しているのであり、極めて小さな自分たちだけの世界に引きこもってばかり。一時避難としての引きこもりとは全然ない。常時引きこもりのうちに「小さな快楽」を絶え間なく与えられることによって「うつ病的快楽主義」に陥る。しかもそのほとんどは無意識的なレヴェルに留まったまま意識にのぼってくることはない。資本にとってこれほど操りやすい国民はまたとない。
騒々しいアメリカとはまた違いどこへ行っても「階級」というものの存在に直面せざるを得ないイギリスでは先進諸国の中でも気づくのが速かったと言えるかもしれない。ところが日本でもここまで階級格差が目に見えて巨大化してくると徐々に「階級」の実在にもかかわらずなぜそれが政治問題化されないままなのかという問いに気づく人々も出てくるのである。
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